はじめに
あなたは今、幸せでしょうか?
自分は幸せだと言い切れるならば、その幸せはどこから来るのでしょうか?
もし、幸せだと言えないならば、どうやったら幸せを掴むことができるのでしょうか?
今回の箇所である詩編23編はダビデが書いたものです。
ダビデは聖書の中でもっとも有名な人物のひとりとして知られています。イスラエルの王であり、百戦錬磨の有能な戦士、そして素晴らしい信仰者でした。
この詩を読むならば、ダビデの人生はとても幸せに見えます。彼は「私は乏しいことがない」と宣言しているからです。
なぜ、ダビデはそのように宣言することができたのか?
私たちももしダビデのように、王としての地位やお金があれば、恵まれた環境があれば、幸せに違いないと考えるかもしれません。
素晴らしい能力や才能があれば、良い外見があれば、頭が良くなれば、何かがあれば、きっと幸せになるに違いない!と考えるかもしれません。
しかし、力強く宣言するダビデとは裏腹にダビデの人生は決して恵まれたものではありませんでした。
ダビデにはいつも渇き、弱さ、敵の攻撃がありました。
不幸のように見える人生の中でも、この詩の中にあるようにダビデの口には神様に対する「信頼」「満足」「喜び」があふれています。
なぜ、ダビデはそのように宣言することができたのか?
それは彼が「神がともにいることが一番の幸せである」ということを人生を通じて体験したからでした。
1節をともに読みましょう。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
聖書(詩篇23:1)
本当の幸せとは、たとえ、私たちの周りの環境が最悪であっても、羊飼いなる主がともにおられるから幸せだ心から言えることです。
あなたは今何にストレスを感じているでしょうか?あなたを最も落ち込ませているものは何でしょうか?
あなたは幸せを得ようと追いかけているでしょうか?それとも、いつ今の幸せが自分から去っていかないか不安になってはいないでしょうか?
今日はダビデの3つの体験から私たちの人生の決して消えない幸せ、「主とともに歩む幸せ」がどのようなものであるのかを見て行きたいと思います。
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①渇きが満たされる
2. 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
聖書(詩篇23:1)
3. 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
柔らかい草の生えている牧場でからだをのばしてリラックスしている様子を表します。
「憩いの水のほとり」は、いのちにとって一番大切な水を飲み、疲れと渇きを癒してくれるということです。
ダビデはなぜ、このように告白することができたのでしょうか。
実際、ほかの詩編を見ると、ダビデはいつも渇いていました。
何が渇いていたのか。それは、たましいの渇きです。
神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
聖書(詩編63:1)
ダビデはいつも誰かに命を狙われていました。この詩は息子アブシャロムから命を狙われてダビデが逃げているときのものと言われています。
からだもたましいもカラカラだったのです。
私たちも苦しみの中にいるときに、からだの疲れを超えたたましいの渇きがあることを体験します。
私は数年前まで銀行で働いていました。
銀行での仕事は私にとって想像を絶するプレッシャーとストレスをもたらしました。
営業のノルマや人間関係でうまくいかず、胃カメラと腸カメラを飲みました。
その時、かなり無理して働いていたため、今でも、腸が壊れています。
毎日、仕事に行くのがいやでした。
毎晩、神様に泣きながら祈っていました。神様の助けなしでは、やっていけないほど自分の弱さ、未熟さを経験したからです。たましいはいつも渇いていました。
「神様はいつこの祈りに答えてくださるのか?」
私にできることは、信じて賛美することだけでした。
その時のことを今でも鮮明に覚えています。
大和カルバリーチャペルの礼拝のムービーを見ながら、いつも一緒に賛美しました。
お風呂の中ではいつも、大声で賛美しました。
すると、たましいが満たされていくことを経験しました。
その主観的な体験は「神様はともにいてくださるんだ」という確かな信仰を与えてくれました。
状況は深刻化していきましたが、結果として、どんな劣悪な状況でも、たましいは主にあって満たされることを経験しました。
また、逆に苦しみが何もないときにも渇いていくことがあります。それは静かな牧場にいても、羊飼いである主がともにいないと感じる場合です。
霊的な栄養素がなければ、私たちの魂はどんどんいのちを失っていきます。
罪にまみれた生活を送っていると魂はどんどん麻痺していくでしょう。
わたしはこういうときがあります。聖書を読んでも何も感じない。いや、むしろ読む気にもおきない。
気づかないうちに罪を犯し、何も感じない。感謝もおきず、賛美をしても心が満たされません。
そういうときは、「何かおかしい」と思うのですが、多くの場合、神様から心が離れた時です。
苦しいときの方が、神様をより近くに求めることがあります。
そういう時の方が、渇きをより強く感じるのです。
主がいなければもうダメだ!と感じるからです。
私たちのたましいがいつもいのちのパンである聖書のみ言葉で満たされれば、いける水である聖霊さまで満たされれば、決して渇くことはありません。
だからこそ、いつも、主との新鮮な交わりをする必要があります。
毎日個人的に礼拝し、聖書読み、祈ることはもちろん、仕事をしている時も、勉強している時も、家でのんびり休んでいるときも、買い物中も、神様のことを考える必要があるのです。
私たちの渇きがキリストによって満たされるならば、私たちは義の道をまっすぐ歩んでいくことができるのです。
②弱さが慰められる
4節を読みましょう。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
聖書(詩編23:4)
死の陰の谷を歩いて、恐ろしいと思うときはどういう時でしょう?
羊はよく、谷底に落ちてしまいそうになるそうです。
また、急に野獣が出てきて殺されることもあるそうです。
羊たちにとって谷は危険な場所で、近づかないことが一番だと思います。
しかし、羊は愚かで、すぐに群れから離れ、道に迷ってしまいます。迷った羊は探すのに二、三日かかり、野獣に殺されたり、危険な谷間に近づいてしまうこともあります。
羊自身が迷ったことに気づくと、急に怖くなって動けなくなり、地面に横たわって泣くそうです。
羊飼いに見つけられても、全身が麻痺になり動けません。
そんなとき、羊飼いはその羊を担いで歩きます。
羊は大きいもので160KGほどの重い動物です。
ダビデは自分の体験から、このような羊と羊飼いの関係がよくわかったと思います。
ダビデは王になった後に、不倫と殺人という罪を犯しました。
王という権威を使い、部下ウリヤの妻バテ・シェバと関係をもち、それを隠すためにウリヤを戦争の中で殺されるように仕組んだのです。
最初はあまり罪悪感もなく、ちょっとした出来心だったかもしれません。
しかし、ちょっとした出来心でゆるされる罪ではありませんでした。ダビデはその罪の刈り取りをすることとなります。
自分が犯した罪が引き金となり、ダビデは神と人との前で大きな恥を味わい、息子たちが殺し合い、息子の反逆により
イスラエルで多くの血が流されました。ダビデの愛する息子もふたり死にました。
ダビデは自分の犯した罪を通して、自分の弱さをとことん思い知ったのです。
しかし、ダビデは弱さが引き起こし、死の谷の陰を歩くことがあっても、決して主は自分を見放さないということを体験しました。
4節の「あなたのむちとあなたの杖」の杖とは、羊を守る武器としてのほか、群れに従わない羊をしつけるためにも使われました。
ダビデはのちにこのように告白しています。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
聖書(詩編119:71)
私たちはだれもが間違いを犯します。誰もが弱さを持っています。
先のことが見えずに、自分勝手に突っ走り、その結果からくる代価を自分でさえも支払えなくなります。
私たちが神様から離れたときが一番きけんです。
しかし、私たちの神様は、自分で勝手に迷った私たちを熱心に探し出し、動けなくなった私たちを担いで助け出してくださるお方です。
私たちがするべきことは、主から離れてしまった自分の失敗と、自分ではどうすることのできない弱さを正直に認めて、「主よ!ごめんなさい!助けてください!」と叫ぶことです。そうすれば、必ず主は私たちを助け出してくださるのです。
③敵から守られる
5節を読みましょう。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
聖書(詩編23:5)
ダビデの時代は戦いが多く、彼はいつもに敵に囲まれていました。
敵がきたならば普通、心理学的には戦うか逃げるかの選択肢しかありません。
そして私たちは恐れに支配されます。
しかし、ダビデは近くにいる神様がどのようなお方かを知っていました。
全知全能で、しかも100%ダビデの味方である神様は、どのような敵にも必ず勝利してくださることがわかっていたのです。
しかも、神様は余裕です。私たちが恐れている状況でも、私たちのことを気遣い、食事をも与えてくださるのです。
聖書にはこのように圧倒的に敵から守られる出来事が多数出てきます。
モーセは、幾度もエジプトの王パロの弾圧を受けていました。神様は紅海を分けて、モーセとイスラエルの民を奇跡的に助け出されました。
ダニエルは、バビロン王国で迫害を受けました。しかし、ライオンのおりの中に一晩いれられても、神様が彼を守ったので死にませんでした。
エリヤは、バアルの偶像礼拝者450人に殺されるところでした。神様が火を降らし、圧倒的な勝利を手にしました。
私たちにとって敵とは何でしょうか。
私たちはサタンがいつも私たちを誘惑し、罪を犯すように攻撃のチャンスを狙っています。
サタンの甘い誘惑に負けたとき、傷や恥、様々な罪の刈り取りをすることになるかもしれません。
しかし、神さまがともにいるとき、サタンは私たちに指一本触れられません。
私たちは常に油を注いでくださる神様から目を話してはいけません。神様は常によろこびの油で満たしてくださるのです。
もし、私たちがいつも全知全能のイエスキリストが私たちとともにおられるということを信じるならば、どんな敵を見ても恐れる必要はありません。
どんな環境の中にいても、イエスキリストは嵐をも沈められるお方。
どんな人が私たちを責めても、イエスキリストは人間を造られた方。
イエスキリストは病を癒す方。
罪と死をもを十字架によって、死と復活によって勝利されたのです。
そのお方を受け入れた人は、イエスキリストがいつも私たちとともにおられるのです。
まとめ
最後に6節を見ましょう。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
聖書(詩編23:6)
ただ一緒にいるだけではなく、意識的に時間を過ごし、積極的に相手を喜ばすことが必要です。
私たちと神様との関係も同じではないでしょうか。
私たちはいつも神様と一緒にいます。しかし、心が神様に向けられていないことが多いかもしれません。
ダビデは意識的に告白しました。
「いつまでも主の家に住まいましょう」つまり、「永遠にあなたとともにいます。そうすれば、私は幸せです!」
確信に満ちた告白があります。
私たちは神様との時間を意識的にとる必要があるかもしれません。静まって聖書を読み、祈りる時間があるでしょうか。
いつも、偽りのない心で、神様に感謝し賛美を捧げているでしょうか。
私たちが渇いていても、神様が満たされます。
私たちが弱くても、神様が慰めてくださいます。
私たちの周りに敵の攻撃があっても、神様が完全に守られます。
神がともにおられることは私たちにとって一番の祝福です。
主イエスキリストを信じましょう。