今回は、「どうして他人の信仰や価値観まで否定するんですか?
宗教は価値観の押しつけなのでは?」
という疑問について、聖書にどのように書かれているのか説明していきます。
このクリスチャンQ&Aシリーズでは、クリスチャンに関わる素朴な疑問から、少しディープな問題、
普段はなかなか聞きにくい内容…等について、
ゆうき牧師に質問をしていき、聖書をもとにわかりやすく解説していくシリーズとなっています。
この記事の内容はYouTubeでも話しているので、よかったらYouTubeも見てくださいね!
取り上げて欲しい疑問や話題があれば、ぜひYouTube動画のコメントでリクエストをお願いします!
今回はクリスチャンQ&Aということで、
2020年12月に札幌ガーデンチャーチで洗礼を受けた
洗礼者第一号の吉田こうきさんをお招きしています。よろしくお願いします!
よろしくお願いします!
こうきさんがクリスチャンになる前とか、なってからもそうですけれども
色々な疑問があると思うのでそれを1つ1つ、取り上げていきたいと思うんですけれども
どんな疑問がありますか?
宗教って価値観の押し付けじゃないかな?
という風にノンクリスチャンの時に思っていて。
どうしてかというと、
他の人の信仰とか価値観まで否定するような宗教が多いと思っていたからです。
それって、どうなのかな? っていつも疑問でした。
宗教は価値観の押し付け?
なるほど。押し付けとか、強要みたいな感じじゃないのか? ってことですよね。
そうです。それで宗教に対して「うっ」てなる、拒否感のように感じるのかなと。
世の中の人も、みんなそう思っているんじゃないでしょうか?
今、クリスチャンになってからこうきさんはどう思ってますか?
クリスチャンになって1年で思うのは、
信じていることを伝えるということは全然OKなのかなと思うんですけど
伝える側の人間性とか、伝え方の問題なのかな? と思っています。
聖書の教え自体は大丈夫だけど、
伝える人に悪いイメージがついちゃってるとか、尊敬されてなかったら・・・
逆に言うと、尊敬する人から言われれば聞く耳を持つけど
そうじゃない人から言われても「いやいや、あなたが出来てないじゃない」
みたいなことを思われたりするのかな? とか。
だから、世の中に受け入れられてないのかな?
と、そういう風に思ったりしています。
こうきさんは、クリスチャンになって、
逆に自分が押し付けをしたりはしていませんか?(笑)
していないと思います(笑)
となると、やっぱり伝える人、語る人の問題?
宗教自体ではなく、伝える人の問題?
僕は、普段仕事でセールスマンをしてるのでスキルじゃないですけど
そういう技術を使ってこういう風に伝えたら、もっとうまく届くっていうのを
何となく分かってるので、無意識でもそれを使ってると思うんです。
伝えること自体、信仰を持つっていうこと自体は
価値観の押し付けではないけど
ネガティブになってるのは伝え方の問題とか、
伝える側にも工夫が必要なのかなって思ってます。
実際に歴史の中で強要しちゃってるクリスチャンっているんですよ。
だから、身近にも…こうきさんの身近には、いなかった?
身近にいましたね(笑)
いたんだ(笑)
だから、やっぱり実際にいるんですよね。
歴史で見ると、十字軍とか植民地って結構クリスチャン国家がやっています。
あれだってインベーションです、キリストの名によって植民地にしていく。
これは聖書的ではないですし、個人レベルで言うと勧誘が、強要になっている。
僕も韓国の進学校に通っていた時に、実体験としてあります。
「牧師だろうが何しようが、正しい聖書の理解をしないと地獄に落ちるぞ!」
みたいなことを、道端で後ろからめっちゃ言われて。
嫌ですよね、そんなことを言われたりしたら。
クリスチャンでもそういう風に言っちゃう人って、いるのかなと思います。
でも聖書にはそう書かれていないんです。それがモデルでもないですよね?
聖書に出てくるイエス・キリストって、押し付けていたか? どうでした?
押し付けるような感じではないですよね。
イエス・キリストは全く押し付けてません
イエス・キリストって、聖書を読んだらわかるんですけれども、
全く人に押し付けてないです。
むしろ、人々が話を聞こうと群がっていたんですよね。
さっきこうきさんもおっしゃってましたけども、多分本来はこっちが正しくて
クリスチャンが魅力的で輝いていたら、発信しているメッセージをみんなが聞きたいとなる。
教えてくださいって来るはずです。
でも誰も関心も無い状態で、こちらから
「ねぇねぇ聞いてよ」「こうすべきだよ」「信じないといけないよ」
って言ったとしても、
相手としてはいきなりピンポンされて、強引にセールスされている感じですよね。
本当に良いものが間違って伝わってしまうってことです。
そして、もう一つ考えないといけないのは
むしろキリスト教徒が、押し付けられてきた歴史があるということです。
むしろ、押し付けられていたキリスト教の歴史
1587年以降、日本の秀吉いますよね?
秀吉が政策を変えて、キリスト教を迫害し始めました。
長崎では26人の司教と信徒たちがはりつけにされました。
クリスチャンが虐待拷問を受けた時に、
実際に「信仰を捨てなさい」とか「聖書以外のものを信じなさい」と言われたそうです。
実はクリスチャンって、そういうふうに迫害された歴史があって
それは、実は今もそうです。
例えばクリスチャンに対して「それ、価値観の押し付けじゃないですか?」
って誰かが言うとするじゃないですか。
でもこれも、実はその人の価値観の押しつけになっているんですよね。
言われてみると、そうですね、確かに。
「押し付けだ」という発言も、押し付けじゃないですか?
信教の自由があるわけだから、
「こうなったら地獄に落ちますよ」っていうのは
別に言ってもいい、本当は。
相手が嫌がっているのに2回も3回続けて「地獄に落ちるよ」
っていうのは押し付けですけども。
1回は自分の信じているものの表現をしたり、言ってもいいと思います。
結構、それを聞いて嫌な人が「押し付けるな」って、押し付けてくる。
最終的な結論を言うと、
僕らがクリスチャンであれば
相手が嫌がるんだったら話さない方がいいし
ちゃんと相手の話を聞いて、その上で聖書のメッセージとかが
その相手に必要であるんだったら
クリスチャンとして答えていくというのがいいのかなと思います。
結論 相手が求めている時に、福音を伝えるがベスト
どうでしょうか? ここまで話してみて。
向こうから「それ言わないで」っていうのも、
ひとつの押し付けというか
その人の宗教観や価値観の押し付けでもあるということは、
新たな発見でした。
自分が信じていて、良いと思っているものを
相手のことも考えて誠実に伝えるという姿勢が、
クリスチャンとして大切なのかなという風に思いました。
まとめ
Q 「宗教は価値観の押し付けじゃないですか?」
A 「相手に対して『押し付けだ』と言うことも、ある意味押し付けになります。
イエスさまは決して押し付けませんでした。
クリスチャンであれば、相手が嫌がるんだったら話さない方がいいし、
きちんと相手の話を聞いて、その上で相手に必要だったら
伝えていくというのがいいのかなと思います。」
信仰の自由があります、発言の自由もあります。
一度は相手に伝えたり、逆に相手から言われても押し付けにはなりません。
ただ相手が嫌がっているのにも関わらず、何度も話すのは押し付けになるかもしれません。
クリスチャンとして私たちが見本としたいのは、イエスさまの姿勢ですよね。
イエスさまは決して押し付けず、むしろ「聞きたい」と人が集まっていました。
私たちもクリスチャンとして輝いて、むしろ周りから
「聖書を知りたい」と求められるようになりたいですね。
これからもクリスチャンの生活で悩んでいる方、
Q&Aという形で、ひとつひとつ答えていきたいと思います。
皆さんの中でも「このこともゆうき牧師聞いてみたいな」とか
「自分はこういうことも考えているんだ」っていうのがあれば
ぜひYouTubeコメント欄に載せてください。
動画とブログを通して答えていきたいと思います。また次回お会いしましょう!
ここまで読んでいただきありがとうございます。このメッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。