はじめに
今日は、聖書の中に書かれている、「赦し」について解説します。
私が小学校の時に友だちと喧嘩をすると、いつも先生が最後に「お互いに謝りなさい」と、子供が嫌がっても、先生の大きな手でそれぞれの手をつかんで無理やりにでも握手をさせていました。
すると自分でも不思議ですが、相手を憎む思いが消えていたのを覚えています。
それで子供の時にはたいていは済んでいたはずですが、大人になるとそうもいかない時がありませんか。
例えば謝罪をされても、自分が受けた損害があまりにも大きいために赦さないことや、謝罪を受けることそのものを拒絶してしまうといったことです。
「赦し」が大切だと言われても、素直に受け取れない自分がいることに気が付くことがありますよね。
この記事を読めば、聖書に書かれている赦しがわかるようになり、新しい人生を歩み出す方法を知ることができます。
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聖書は赦しについて何と言っているのか?
結論を一言でいうと、 赦しとは、罪が二度と思い出されないということ です。
赦しの始まり
人が人に対して罪をおかした時、多くの場合、その罪に対するつぐないが求められます。
例えば、友人同士の喧嘩における謝罪のことばや、自動車事故の賠償金です。
これらのつぐないによって、相手の心をなだめることは隣人関係のバランスを保つ為には非常に良い方法ですし、傷ついた側の癒しは大切なことです。
しかし、時に償いの考えは、神さまと私たちの関係についての理解をゆがめることがあります。
私たちが「赦し」を考えると、自分が犯した罪を神さまに謝ると、神さまが赦してくれる、という「方程式」にはまってしまうことがあります。
完全に間違っているわけではありません。
しかし、これは赦しのプロセスは傷つけた側である人からの発信があって初めて、神が赦しのプロセスをスタートするという考えです。
しかし、イエス様は十字架の上でこう言われました。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
聖書(ルカ23:34)
赦しのプロセスを最初に始められたのは神さまです。
人々は自分が何をしているのかわからなかったので、赦しのプロセスを始めることさえできませんでした。
この神さまから発信される赦しの方向性は聖書全体に一貫して流れているものです。
人はこの神さまが始められたプロセスの中で、自分の罪を認め、告白することにおいて、神さまが差し出された赦しに同意すると同時に、赦しを握るというステップを踏むことになるのです。
赦しが必要な人って誰?
私たちは生まれたばかりの赤ん坊の時、一身にその愛を親から頂きました。
食事も、服も、愛情も、すべて親の側から与えられました。
しかし成長に伴い、教えられてはいないのに、親にウソをつくようになり、してはいけないということをするようになり、親との距離を取ろうとします。
そうなると、親が話しかけても、聞こうとしなくなります。もしくは聞くふりをして、内心では疎ましく思うこともあるでしょう。
そのような時、本当の親の気持ちや、親の愛は子に届いているでしょうか。残念ながら、そうではありません。
人と神さまの関係もこれと似ています。
全ての人は神さまとの間に大きな隔たりを造り、神さまに罪を犯しました。
人は、本来、天地万物を造られた神さまと完全に良い関係にありましたが、神さまから背を向けて歩み始めたことにより(これを罪と言います)、神さまの考えがわからなくなってしまったのです。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
聖書(Ⅰヨハネ1:8)
私たちすべての人に赦しが必要だということなのです。
赦しの方法
聖書は赦しが必要なすべての人に、神さまが赦しを与えようとされていると書かれています。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである
聖書(ヨハネ3:16)
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
聖書(Ⅰヨハネ19)
では、赦しとは何でしょうか。罪に目をつむるのでもなく、罪を多めにみてみて見ぬふりをするのでもありません。
聖書で使われている赦すという言葉は、「拭う」「覆う」という意味を含みます。また「取り去る」「解放する」という意味もあります。
すなわち、神さまが人の罪を拭い、取り去る。神さまが、罪をおかして負い目を抱えてしまっている人の心を解放する、それが赦すということです。
わたし、このわたしは、わたし自身のために
聖書(イザヤ43:25)
あなたの背きの罪をぬぐい去り、
もうあなたの罪を思い出さない。
拭い去られた罪は二度と、神の前に覚えられることはありません。
そのための準備と方法とを神さまは完全に整えられ、十字架において実行してくださいました。
まとめ
結論を一言でいうと、 赦しとは、おかした罪が二度と思い出されないということ です。
1.赦しは神さまが人を愛して一方的に始められました
2.赦しはすべての人に必要です
3.赦しにより神は人の罪を拭い去れました
参考:新キリスト教辞典(いのちのことば社)
イエス様のたとえ話に学ぶ(小山大三)