私は牧師になるまで銀行で働いていました。
銀行での仕事は私にとって想像を絶するプレッシャーとストレスをもたらしました。
営業のノルマや人間関係でうまくいかず、胃カメラと腸カメラを飲みました。
毎日、仕事に行くのがいやでした。
毎晩、神様に泣きながら祈っていました。
神様の助けなしでは、やっていけないほど自分の弱さ、未熟さを経験したからです。
たましいはいつも渇いていました。「神様はいつ、この祈りに答えてくださるのか?」
私にできることは、神を信じて賛美することだけでした。
ある教会が衛星放送で礼拝を流していたのでそれをビデオにとって、仕事が終わった後に家で、いつも賛美しました。
お風呂の中ではいつも、大声で賛美しました。
すると、たましいが満たされていくことを経験しました。
その主観的な体験はどんな劣悪な状況でも「神様は私を満たしてくださる」という確かな信仰を与えてくれました。
聖書は、神はたましいに活力を与え、心の渇きを満たされると言っています。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
聖書(詩篇23:2-3)
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。
「緑の牧場に伏させ」は、柔らかい草の生えている牧場でからだをのばしてリラックスしている様子を表します。
「憩いの水のほとり」は、いのちにとって一番大切な水を飲み、疲れと渇きを癒してくれるということです。
ダビデはなぜ、このように告白することができたのでしょうか。
実際、ほかの詩編を見ると、ダビデはいつも渇いていました。
何が渇いていたのか。それは、たましいの渇きです。
神よあなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない衰え果てた乾いた地で、私のたましいはあなたに渇き、私の身もあなたをあえぎ求めます。
聖書(詩編63:1)
ダビデはいつも誰かに命を狙われていました。
この詩は息子アブシャロムから命を狙われてダビデが逃げているときのものと言われています。
からだもたましいもカラカラだったのです。
私たちも苦しみの中にいるときに、からだの疲れを超えた、たましいの渇きがあることを体験します。
逆に苦しみが何もないときにも渇いていくことがあります。
それは静かな牧場にいても、羊飼いである主がともにいないと感じる場合です。
霊的な栄養素がなければ、私たちの魂はどんどんいのちを失っていきます。
罪にまみれた生活を送っていると魂はどんどん麻痺していくでしょう。
こういうときはありませんか?
聖書を読んでも何も感じない。いや、むしろ読む気にもおきない。
気づかないうちに罪を犯し、何も感じない。感謝もおきず、賛美をしても心が満たされません。
そういうときは、「何かおかしい」と思うのですが、多くの場合、神様から心が離れた時です。
私たちのたましいがいつもいのちのパンである聖書のみ言葉で満たされれば、いける水である聖霊さまで満たされれば、決して渇くことはありません。
だからこそ、いつも、主との新鮮な交わりをする必要があります。
私たちの渇きがキリストによって満たされるならば、私たちは義の道をまっすぐ歩んでいくことができるのです。