子育てにおいて、しつけは重要です。
臨床心理士の日下紀子さんはこのように言っています。
「しつけは、成長のために必要なルールや社会性、自律性を子どもに身につけさせることです。たとえば、子どもがよその子の頬をつねっているときに、『そんなことしちゃダメ』と口で言っても理解してくれないことがあります。そこで、つねっている手をペチンと叩き『ほら、痛いでしょ。ダメだよ』といった行為はしつけといえます」
逆に「しつけ」とは似ていても違う「虐待」があります。
虐待とは「怒りを発散させるために子どもを使うという自分中心的な暴力」のことのようです。
聖書は、神さまは私たちを正しい道に導くために、しつけてくださると言っています。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
聖書(詩篇23:4後半)
「あなたのむちとあなたの杖」の杖とは、羊を守る武器としてのほか、群れに従わない羊をしつけるためにも使われました。
羊は羊飼いのしつけによって、群れにいることを学びます。
それによって、群れに守られるのです。
しつけがなっていない羊は、群れからすぐにはぐれて、すぐに野獣に殺されます。
同じように、神様の目から見れば、私たちは羊のような弱さを持っています。
自分では自分の人生をまっすぐに歩んでいると思っても、失敗や間違いで人生を棒に振ることがあります。
ダビデがそうでした。
彼は王になった後に、不倫と殺人という罪を犯しました。
王という権威を使い、部下ウリヤの妻バテ・シェバと関係をもち、それを隠すためにウリヤを戦争の中で殺されるように仕組んだのです。
最初はあまり罪悪感もなく、ちょっとした出来心だったかもしれません。
しかし、ちょっとした出来心でゆるされる罪ではありませんでした。ダビデはその罪の刈り取りをすることとなります。
自分が犯した罪が引き金となり、ダビデは神と人との前で大きな恥を味わい、息子たちが殺し合い、息子の反逆によりイスラエルで多くの血が流されました。ダビデの愛する息子もふたり死にました。
ダビデは自分の犯した罪を通して、自分の弱さと、自分の行動には刈り取りがあることをとことん思い知ったのです。
しかし、彼は、神のむちと杖によるしつけが、慰め、つまり幸せだと告白したダビデ。
なぜ、そのように言えるようになったのでしょうか?
苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。
聖書(詩編119:71)
苦しみの中で、彼は神の正しい道を学んだからです。
その経験によって、人の弱さに寄り添えるダビデは、イスラエルの民を神にあって導く、知恵と愛に満ちた王になります。
私たちはだれもが間違いを犯します。誰もが弱さを持っいます。
先のことが見えずに、自分勝手に突っ走り、その結果からくる代価を自分でさえも支払えなくなります。
しかし、間違ってもいいんです。失敗してもいいんです。
私たちがするべきことは、主から離れてしまった自分の失敗と、自分ではどうすることのできない弱さを正直に認めて、「主よ!ごめんなさい!」と叫ぶことです。
そうすれば、神様は、その失敗を通して、私たちを神の子供としてしつけてくださり、より成長することができるように、訓練してくださるのです。