4 さて、大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
聖書(ルカ8:4-15)
5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
6 また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。
7 また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。
8 また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
9 弟子たちは、このたとえがどういう意味なのか、イエスに尋ねた。
10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。
11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
12 道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。
13 岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。
14 茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。
15 しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。
はじめに
1936年。アメリカ。
当時17歳の少年は、クリスチャンの両親に連れられて、モルデカイ・ハムという伝道師の集会に行きました。
説教の途中に、突然、その伝道師は彼のいる方向を指差して、「あんたは罪びとだ」と叫んだ。その瞬間、彼は前列の婦人の帽子の影に隠れました。
その後も彼は数日続く集会に参加しましたが、ある夜、彼は友達を誘い、一緒に聖歌隊の席に座りました。
伝道者から見えない背後の席に座りたかったのです。
その夜、伝道者は彼を指差しはしませんでした。
しかし、伝道師が突然「今夜、ここに極悪な罪びとがいる」と言ったので、彼はショックを受けました。
「彼は僕のことを言っているのだ。だれかが僕がここにいる事を、あの人に告げたに違いない」
伝道者は話を終わり、罪を悔いている者は前に出てくるようにという招きをした。
聖歌隊が歌い出したときも、彼はけんめいに何かをこらえました。
しかし、結局、もうこらえ切れなくなって、前に行って神を受け入れたのです。
この少年の名前は、「ビリー・グラハム」
歴史上のどの説教者以上の人々、2千万人という人々に直接みことばを語り、何万人という人々をキリストに導いた人です。
福音書を読むと、あることに気づきます。
それは、イエスさまから同じメッセージを聞いても、イエスさまを信じる人がいる一方で、信じない人もいるということ。
みことばを聞いて、イエスさまの弟子になる人もいれば、逆にイエスさまを殺そうとする人もいる。
みことばを伝えたイエスさまに何が問題があったのでしょうか?
それとも、みことばに欠陥があったのでしょうか?
違います。
現代においても、世界の20億人がクリスチャンと言われているからです。
ということは、聞く人に問題があったとしか言えません。
さきほどのモルデカイ・ハムという伝道師が、「今夜、ここに極悪な罪びとがいる」と言ったときに、「自分ではない」と思って何も反応しない人もいたと思います。
実際に、ビリーグラハムは2千万人に福音を伝えましたが、その中の大半は、救われていないようです。
今日の聖書箇所を読むならば、なぜ、聞いて救われる人と、救われない人がいるのかがわかります。
そして、神様が私たちにもって欲しい心を、いかにして持つことができるのかを知ることができます。
種を撒く人の例え
イエスさまは群衆に種まきの例えを話されました。
5-8節を見るとある人が4つの異なった地に種をまいたとあります。
- 道端に落ちた種は鳥にたべられた。
- 岩地に落ちた種はすぐに芽を出したが、日が昇ると枯れた。
- いばらの中に落ちた種は、いばらが伸び、ふさいで実を結ぶに至らなかった。
- 良い土地に落ちた種は、100倍の実を結んだ
9節で弟子たちは、 このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねました。
同じストーリーがあるマタイとマルコも見てみると、3つのことがわかります。
・種をまく人はイエスさまである 聖書(マタイ13:37)
イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。
聖書(マタイ13:37)
・種は御国のことば(福音)である 聖書(ルカ8:11)
11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
・土地は人の心である。
11-15節でイエスさまは、その4種類の土地が、4種類の人の心を表していることを説明されます。
1.道端の心をもつ人々
12 道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。
聖書(ルカ8:12)
これは、聞いても悟らない人々です。
だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
聖書(マタイ13:19)
聞いても悟らないので、そのうちサタンがその人達の心からみことばを持ち去ってしまうのです。
人の足で踏み固められた道端のように、心がかたくなってしまっています。
実際、悲しいことに、パリサイ人、律法学者は聖書を知ってはいたものの、福音を聞くと全く悟れませんでした。
特徴は、本人は心が固いことすらも「気づいていない」とうことです。
気づいていないから心が固く、心が固いから気づけないんです。
では、どうすればいいか?後でお話しします。
2.岩地の心をもつ人々
13 岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。
聖書(ルカ8:13)
岩地の心をもつ人々は、みことばを聞くとすぐに喜んで信じます。
でも、みことばのために困難や迫害に出会うとつまづいて、長く続かない人のことです。
理性、感情、意志によって、信じたものの、行動が伴わないので、困難が来るとすぐに信仰を放棄してしまう人々です。
特徴は、「行動していない」ということです。
行動というのは、アクションだけではありません。
試練が来たときにみことばをしっかり握って、忍耐することも行動です。
3.いばらで心をふさがれている人々
14 茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。
いばらで心をふさがれている人々は、みことばを聞いて信じますが、生活上の心配や富の誘惑、その他のいろいろな欲望が心に入り込んでいる人々です。
言い換えれば、衣食住が神様よりも大切だと思っている人のことです。
神と富の両方に仕えるので、いばらが邪魔して、心が疲れるだけです。
特徴は、自分や世のものを「捧げきれていない」ということです。
4.良い地で豊かに実を結ぶ人々
15 しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。
良い心を持つ人だけが実を結ぶと言うことです。
皆さんは良い心を持っているでしょうか?
確かに最初から良い心の人はいます。
そういう人は、聖書を学んだ時に「神のみことば」がスポンジに水が吸収するように入っていき、みことばの力でどんどん変えられ、成長していきます。
しかし、自分が良い心なのか?と自問すれば、「悪い心」のように思えませんか?
自分で「俺は良い心だよな」という鋼のようなセルフイメージを持っている人の方が少ないのではないでしょうか?
むしろ、「俺は良い心だよな」と思っていた人は、パリサイ人でした。
彼らは、自分では良い心を持っていると自覚していましたが、イエス様の目からは(1)道端の心をもつ人々でした。
では、ちゃんと実を結ぶ「良い心」を持つにはどうすればいいのか?
3つの特徴が書いています。
15 しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。
聖書(ルカ8:15)
- ①良い心でみことばを聞いて→正くない前提で聞く
- ②しっかり守り→信じてその通り行う
- ③忍耐して実を結ぶ→神だけに委ねる
たとえ、私たちの心が、道のように固く、岩のように根がはれず、いばらだらけでも、実を結ぶ良い地に変わることができます。
種を撒く人の例えの解き明かし
1.道端の心をもつ人々→気づいていない
①良い心でみことばを聞いて→正くない前提で聞く
ことで、良い地に変わります。
自分が間違っているかもしれないということを考えるのです。
自分がしていること、してきたことが間違っていた、あるいはかけがあったということは認めたくありません。
でも、神様のことばさえも耳をふさぐなら、みことばの種が入らないので、変われません。
8 また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
聖書(ルカ8:8)
イエス様が福音を話すとき、人々によく「たとえ」を用いて教えられました。
たとえ話は、「受け入れるつもりのない人」には、ちんぷんかんぷんかもしれません。
しかし、「詳しく聞きたい」という人には理解しやすい助けとなります。
なぜでしょうか?
たとえの意味が分からなくても、積極的に質問するからです。
事実、弟子たちは、イエス様と自分たちだけになったときに、そのたとえを解き明かしてくれるよう頼んでいます。
そのとき、イエス様は、彼らにたとえの意味を丁寧に説明されています。
彼らに「聞く耳がある」からです。
医者、教授。「なんで聞いてくれないの?なんで信じてくれないの?」これが人間。
「気づかない」という状況を乗り越える鍵は、自分が間違っている前提(自分よりも神様が自分のことをもっとよく理解している)でみことばを聞くことです。
2.岩地の心をもつ人々→行動していない
②しっかり守り→信じてその通り行う
ことで、良い地に変わります。
試練が来たときに初めて、頭の中の知識としてのみことばが、血となり肉となるのです。
みことばを聞いて、「その通りだ」と思ったり、どれだけ感動したとしても、実際にみことばを人生に適用しなければ現実は何も変わりません。
みことばを聞いても受け入れない人はどういう人だと聖書は行っているでしょうか?
22 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
聖書(ヤコブ1:22-24)
23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
24 眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
大事なことは試練が来たときに、みことばで立ち向かうことです。
逃げたいな。嫌だな。なんでこんなことが起こったのかな?と思ったとき、みことばを読んで、その通りに行動するのです。
たとえば、思い煩いでストレスで押しつぶされそうなとき、どうしますか?
お酒に逃げますか?浪費しますか?怒りますか?
聖書はこう言っています。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
聖書(ピリピ 4:6)
「思い煩わない」ことを実行します。
「あらゆる場合」とあるので、感謝できない時もです。
感謝をもってささげる祈りと願いを神様にぶつける。
簡単ですね?
でもどれだけ多くの人は、「感謝せずに、ずっと思い煩っているか」
口で言うほど簡単じゃないからですよね?
でも、厳しいようですがこれが、みことばを実行する人であり、そう言う人が100倍の身を結ぶんです。
3.いばらで心をふさがれている人々→捧げきれていない
③忍耐して実を結ぶ→神だけに委ねる
ことで、良い地に変わります。
皆さんの人生にはどんないばらが生えていますか?
木に剪定が必要なように、芝は刈る必要があるように、家の中も断捨離が必要なように、
世の誘惑のいばらは定期的に狩る必要があります。
牧師をしても、いばらが生えてきます。
「神に捧げ、仕えるしもべ」であるのに、神の働きを使って自分の欲を満たそうとする自分を見た。いばら。
人に捧げていくのに、ため込もうとする自分がいた。いばら。
示されたので、泣きながら悔い改めました。
泣いたといより、涙が出ました。
「あー、こうやってずれていくんだな」と。
自分のバロメーターは、いつでも全部神と人に仕えるために捧げられること。
時間も、能力も、お金も、全て。
そこを守り出したら、根本がズレていると言うこと。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
聖書(ローマ12:1)
キリストとともに死んで、もはや私はキリストのものである。これが福音の原点です。
衣食住は大切です。
しかし、どんな時でも手放せる、捧げられる覚悟がある方が、自由です。
これには忍耐が必要なんです。
いばらを切るときに、寂しい気持ちがあるからです。
捧げることは見返りを求めないんで、神の報いを信じる戦いがあるんです。
終わりに
今日語られたイエス様のみことばに応答しましょう。
- 道端の心をもつ人々→気づいていない
①良い心でみことばを聞いて→正くない前提で聞く - 岩地の心をもつ人々→行動していない
②しっかり守り→信じてその通り行う - いばらで心をふさがれている人々→捧げきれていない
③忍耐して実を結ぶ→神だけに委ねる
悪い心でも、良い心になれます。
神様の力が必要です。
だからこそ、私たちの謙遜な姿勢が求められています。
「聞く耳があるか?」もう一度、心を点検しましょう。