大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
聖書(ローマ書 12:5)
はじめに
「おたくで買ったタイヤチェーンのサイズが合わなくて装着できない。いまからすぐにスキー場まで代替品を持ってこい!」
理不尽な要求だと分かってはいても、客のあまりの剣幕に屈し、カー用品店の店員はスキー場までチェーンを届けた。
するととんでもない言葉が飛び出す。
「チェーンが届くまでの時間が無駄になった。その時間料を払え」──。
いま世の中には、このようなモンスター化したクレーマーが急増しているそうです。
労働組合UAゼンセンが、2017~2018年に8万人余りの組合員を対象に行った「悪質クレーム対策アンケート調査」によると、実に7割強の組合員が「客からの迷惑行為に遭遇したことがある」と答えています。
モンスタークレーマーによる迷惑行為の中身を見ると、最も多いのは冒頭の事例のような「暴言」や「威嚇・脅迫」で、「何回も同じクレーム」「説教」も相当数に上っています。
同調査によると、「精神疾患になったことがある」と答えた人が1%、約600人もいます。
「強いストレスを感じた」と答えた人は54%に上り、「軽いストレスを感じた」も合わせると、全体の約9割がクレーマーの迷惑行為によって精神的なダメージを被っているのです。
クレーマーの存在が、組織や経済にとってプラスに働けば、まだいいでしょう。
しかし、もっと残念な調査があります。
日本の労働生産性はOECD(経済協力開発機構)平均よりもずっと低いのです。
どういうことかというと、モンスタークレーマーによって、日本の労働生産性の足かせとなっている可能性があるというのです。
モンスター社員が1人いるだけで月100万円の損失になるとの試算もあります。
日本では「お客様は神様」「安いのはいいこと」という2つの価値観を持っている企業が多く、過剰サービスの副作用としてクレーマーが急増し、その存在が企業をさらなるサービス競争に駆り立て、生産性の低下を招いているのです。
では、教会はどうでしょう?
日本の教会の平均は30人と言われています。
なかなかその30人の壁を超えるのは難しいからです。
なぜでしょうか?
ある教会の専門家は、「教会員が、牧師にサービスしてもらうお客さんになっているからだ」と言いました。
「教会が~してくれない」
「もっと、こうするべきだ、しないべきだ」
私たちもついこのように考えてしまうこともありますよね。
しかし、私たちがこのようなお客さん意識を脱却しない限り、教会は成長していきません。
なぜなら、聖書は、教会に来る私たちを「お客さん」とは言っていないからです。
では何と言っているでしょうか?
あなたは教会の一部である
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
聖書(ローマ 12:5)
聖書は、教会に来る私たちを「教会の一部」だと言っているのです。
パウロは、ここで擬人法を用いています。
擬人法とは、人間ではないものを人間のように例えることです。
教会を人間の身体に例えました。
そして、私たちがその身体の各器官というのです。
例えば、あるひとは鼻。目。口。
それぞれが、それぞれの個性と役割を果たすことによって、身体は有機的に動くのです。
つまり、聖書は、教会とあなたという存在が分離しているのではなく、あなたが教会の一部分、あなた自身が教会なんだと言っているのです。
あなたが教会なら、教会に対して、
「~してくれない」
「もっと、こうするべきだ、しないべきだ」
というのは、間違っていることになります。
正しい言葉は、
「私たちはどうすればいいだろうか?」
「もっと、こうするには私は何ができるだろうか?」
と自分事として捉えることです。
もし、自分が教会に来て、「誰も話しかけてくれなかった」と寂しいように感じたら、あなたが教会に来る人をウェルカムすればいいのです。
もちろん、いろんな人がいるので、みんながしたいことをバラバラにするのは秩序が崩れます。
ある時は、話し合いも必要でしょう。
しかし、今日、覚えたいことは、「あなたが教会の一部分」であるという事実です。
あと大事なことは、からだの頭の部分は、キリストです。
キリストが教会のかしらであり、
聖書(エペソ5:23)
キリストを頭として、キリストの権威に従って神の栄光のために動くのが、からだである教会なのです。
この「からだ」には二つの重要な特徴があります。
①一体性と②多様性です。
①一体性
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
聖書(ローマ 12:5)
「大勢いる私たち」とは、キリストを信じ救われている人です。
その集まりをエクレシア、教会といいましたね。
わからない人は、ぜひ、ガーデンチャーチの教会とは何か?シリーズを最初から見てください。
そして、この集まりは、ただの集まりではなく、一つのからだを形成していると聖書は言っているのです。
これが、教会の一体性です。
この一体性で大切なのは、先ほども言いましたが、
教会という対象を外から見るのではなく、あなたが教会であるという一体性です。
あなたが教会であるなら、教会はあなたの身体です。
誰もが、自分の身体を大事にします。
傷つけたら、自分が痛むし苦しいからです。
皆さんは、教会を自分の身体のように大事にして、愛しているでしょうか?
それとも、自分のニーズを満たすためのものになっていないでしょうか?
自分のからだなら、身体のニーズを満たすのは自分です。
美味しいものを食べて、よく身体を労ります。
病気になった、病院に行って治療を受けます。
皆さんは、教会を自分の身体のように大事にして、愛しているでしょうか?
そこで、一つの問題が浮上します。
教会を愛する鍵は「自分を愛しているか?」ということです。
最近、心理学の分野では有名になった話ですが、人間関係のあらゆる問題の根源は、「自分を愛していない」ことによるものだそうです。
人に強く当たる人は、実は自分自身に対してゆるせない部分を相手に投影して怒っているのです。
「自分を愛していない」人は、本当の意味で他人を愛することはできません。
実は、聖書もそのように言っています。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
聖書(マタイ22:39)
これは、ナルシスト、ナルシシズムとは違います。
健全な自己愛は、「自己肯定感」です。
不健全な自己愛は、「ナルシシズム」「自己愛性パーソナリティ障害」です。これは精神疾患の一種とされています。
違いは、ただ一つ。
自分を本当の意味で、愛しているかです。
不健全なナルシシズムは、専門家によると、本当のところ自分を愛していない人です。
自分を愛せていないので、いつも心に隙間があり、愛を欲しています。
誰も愛してくれないので、自分が無理矢理愛そうとします。
健全な「自己肯定感」は、自分を愛しせている人。
言い換えれば、神に愛されていることを体験している人です。
これは、聖書的です。
私たちは、自分を軽く見ません。身体を傷つけ、ジャンクフードばかり食べて、私なんか死んでもいいどうでもいい存在なんだと口にするのは健全ではないのです。
私たちは、神の似姿に造られ、全知全能の光栄に満ちた神を父とする王子です。
無能な存在ではなく、この社会を神にあって正しく治める権威と能力が神に与えれています。
周りの人や、動物や自然に優しくできる、暖かい心を持っています。
私たちの命は、神であるキリストが命を犠牲にするほど、価値のあるものです。
神が命がけで愛してくださったことを知り、体験するときに、私たちは、自分を大切にして愛せるのです。
これが、健全な自己愛は、「自己肯定感」です。
教会を愛する鍵は「自分を愛しているか?」といいました。
自分を愛せていないなと思う人は、教会の中で愛を体験し、自分とからだである教会を愛せるようになります。
難しいこと言いましたね。
簡単に言えば、かしらであるキリストから愛をたっぷり受ける。
それだけです。
「からだ」の二つの重要な特徴の2番目は、
②多様性
教会はいろいろな器官によって成り立っています。
これは、私たちは一体性を持っているけど、ロボットのように同じ動きをしているわけではないのということです。
教会はあなたと多数の違う人によって成り立っているのです。
これこそ、身体に例えるとわかりやすいです。
14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
聖書(1コリント12:14-27)
15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
口が目に向かって、おい、お前本当に無口だな!見つめてばかりいないで何とか言ったらどうだ!といっても話になりません。
口と目と耳と鼻、全部得意分野が違います。
1番は、みんなで一緒に動くことです。
教会も同じです。
教会の誰かを批判していうるうちは、多様性を理解できてはいません。
誰かをみて、欠点や足りないところに気付くのは当たり前です。
その時に、批判するのではなく、みんなで一つなんだ、どうやって協力しようかと思えるかが鍵です。
終わりに
まとめましょう。
聖書は、教会に来る私たちをからだにたとえ、私たちを「教会の一部」だと言っています。
この「からだ」には二つの重要な特徴があります。
①一体性と②多様性です。
ここから何が言えるでしょうか?
簡単です。
教会は「あなた自身」であるから、自分を愛するように、教会を愛しましょうということです。
教会の将来のことをワクワクしながら考えるとき、「こうしたらいいんじゃないか?」と気づくことき、自分のこととして、自分が何ができるかを考えましょう。
これが、一体性です。
そして、その時に、自分一人だけではなく、多様な能力や経験、特徴をもった周りの人と協力しましょう。
一緒に建てあげていきましょう。
それが、多様性です。
一見バラバラで、でも有機的に動いている。
そのために必要なのは、このからだである教会の、頭はキリストであるということです。
私たちが、①一体性と②多様性を持って、キリストを見上げ続けるときに、ガーデンチャーチは、前に進んでいくのです。