38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
聖書(ルカ 10:38-42)
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
はじめに
日々、最も大切にしたい行動の優先順位を立ててみてください。
一番大切なこと3つ。
一日に三つしかできないとしたら、何をしたいか。
それ、実行していますか?
実際に、今、している時間が多いものから3つ選んでください。
- 仕事
- テレビ
- スマホいじり
ギャップはどうやって生まれるか?
しなければいけないこと⇄したほうがいいと思っていること
したほうがいいと思っているけど、実際はできない。
論理的な破綻状態。
今日は、マルタとマリアの話をしたいと思います。
これは、ガーデンチャーチにも言えることで、私たちの教会の優先順位にも関わる大事なメッセージです。
マルタとマリアの優先順位
イエス様の知り合いに、マルタとマリアという姉妹がいました。
イエス様と弟子たちご一行をもたなすために、一生懸命動いていた姉のマルタは、妹マリアにイライラしました。
「イエス様、マリアは何にもしないんです!働くように言ってやってください!」
しかし、イエス様はマリアの方を評価しました。
マリアは、他の何よりも、イエス様のことばに耳を傾けたからです。
神様が私たちに一番して欲しいことは「主の足もとに座って、主のことばに聞き入ること」だけです。
イエス様は、言いました。
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
聖書(ルカ 10:41-42)
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
一つだけ。
これだけ、やればいいと言っているのです。
ほっとしますね。
マルタの働きは不要だったのか?
でも、ここで反論したくなります。
「じゃあ、マルタがやったような奉仕は必要ないのか?」
「イエス様が家に来たとき、掃除もしないで、お茶も出さないでいいのか?」
それって、ちょっと違う気がする。
実は、今日のマルタとマリヤの話の前にイエス様は別のたとえ話をされています。
それは、良きサマリヤ人の話 (25~37節) です。
良きサマリヤ人の話の論点は、「困っている人がいたら助けてあげなさい」「隣人愛は言葉ではなく、実践するものだ」ということです。
まさにマルタがしているような、「おもてなし」ではないでしょうか?
聖書も、イエス様も、他の人のために一生懸命働くことが悪いと行っているのはありません。
問題は、優先順位。
神様のために奉仕しているつもり、もっとも大切なことを見失っては本末転倒だということです。
実は、マリヤの「主の足もとに座って、主のことばに聞き入る」姿にそっくりなシーンが他の箇所で出てきます。
人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。それで恐ろしくなった。
聖書(ルカ8:35)
レギオンです。
彼は、悪霊に取り憑かれていましたが、イエス様に出会って悪霊から解放されます。
そんな、彼が最初にしたことは、
「主の足もとに座って、主のことばに聞き入る」ことでした。
つまり、私たちが救われて一番最初にすることは、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入る」ことです。
みなさんはどうですか?
救われたとき、他の何よりも一番嬉しかったのは、「イエス様そのもの」じゃなかったですか?
でも、今はどうでしょう?
もしかすると、私たちは「はじめの愛」が冷めてしまっているのかもしれません。
では、私たちが「マルタになるとき」はどういうときか考えていきたいと思います。
私たちがマルタになるとき
①自分の声に聞き入っているとき
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
いろいろなもてなし→バーンアウトしている。直訳「多くの奉仕」
心が落ち着かず→心があちこちに引かれ分散すること
マルタは、「自分の声に聞き入っていました」
マルタの心の声が聞こえるようです。
「あれもしなきゃ!」「ああ、イエス様に怒られちゃう」「こんなことしてたら失礼に違いない」
「何で、私だけやってるの?」「マリアは何している?」「ふざけんな!」
こうやって、自分の心の声が暴走し、勝手に怒りに発展しています。
しかし、誰もマルタに「~してください」と言っていません。
マリアも、イエス様も。
誰が「~しなくちゃダメ」と言っているのか?
マルタ本人です。
私たちはどうでしょう?
ドラッカーは、「優先順位の決定は、分析ではなく勇気に関わるものだ」と話しています。
元ボストンコンサルティングの内田さんも、「ビジネスにおいて本当に大事なことは、やらないことを決めること」だと述べています。
つまり、しなくていいことをいかにしないかが重要です。
僕らは神ではないからです。
しかし、世の中の優先順位の付け方で足りないことが一つあります。
それは、優先順位は、「私たちが良いと思う」ことが基準ではなく、「神様は何と言っているか?」ということによって決まるということです。
「本当にこれはした方がいいのか?」という問いかけを自分にするのではなく、神様に聞くのです。
なので、私たちは神様の足元に座って、神様の声を聞く必要があるのです。
マリアは?
神の声に聞き入っていました。
②奉仕に奉仕しているとき
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
私だけにもてなしをさせている→自分だけが奉仕していると勘違い
勘違いです。
そもそも、イエス様は求めていないのですから。
じゃあ、なぜ、マルタは奉仕している?
自分の作り出した奉仕に奉仕しているから。
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
〈心配して〉は「思い煩う」で,過度の心配を意味する。
〈気を使っています〉は「心をかき乱す」意味でマルタの感情的いらだちを表す
イライラしている時は何かがおかしい。
これは飯田結樹状態と呼ぶことにしましょう。
言い換えれば、マルタは、奉仕に囚われています。
マリア→神に奉仕している
③神ではなく「私」が中心のとき
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
マルタの発言は「私」がいっぱいです。
イエス様に対しても怒っています。
私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
なぜ、奉仕される方が、怒られているのでしょうか?
私たちが、神と人とのために何かをするときにイライラしてしまうなら、一度止まって考える必要があります。
そもそもこれは
「誰のための奉仕なのか?」
「イエス様はそれを本当に求めているのか?」
「イエス様は喜ぶのだろうか?」
「イエス様が喜ぶことは何か?」
突き詰めていくと、めちゃくちゃ簡単な答えが待っています。
大切なのはただ一つ。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
マリア→私ではなく「神」
神様の前に静まって、みことばを聞くことが最優先であることは、初代教会でも再確認されます。
そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。
聖書(使徒 6:2)
同じことですよね。
奉仕が悪いのではなく、優先順位。
終わりに
もう一度、チェックしましょう。
私たちが「マルタになるとき」
- ①自分の声に聞き入っているとき
- ②奉仕に奉仕しているとき
- ③神ではなく「私」が中心のとき