43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
聖書(マルコ10:43-45)
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
はじめに
教会には2つの大事な目的があります。
- ①神を愛し、隣人を愛するため。(①礼拝、⑤奉仕)
- ②神の国の拡大のため。(②宣教、③交わり、④教育)
この目標を達成するために教会がする5つの具体的な機能を見ています。
- ①礼拝
- ②宣教
- ③交わり
- ④教育
- ⑤奉仕
今日は最後の奉仕についてです。
辞書によると、奉仕は「報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うこと」
今日も、教会の奉仕と、この世の奉仕の違いを聖書から説明します。
それがわかると、ガーデンチャーチにおける一人一人の奉仕が社会を変革するほど力があるのかがわかるようになります。
奉仕とは何か?
奉仕とは、
- ①賜物を用いて、 聖書(1ペテロ4:10)
- ②愛によって、 聖書(1コリント13:1-3)
- ③他人の必要を満たすこと
です。
①賜物を用いて、 聖書(1ペテロ4:10)
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
聖書(1ペテロ4:10)
賜物=神が私のために与えてくださった全てのもの。
今日は、ここがポイントではないので、賜物について、例えば、自分の賜物の調べ方などは、今度時間をとって取り上げます。
②愛によって、 聖書(1コリント13:3)
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
聖書(1コリント13:3)
どんなに素晴らしい賜物を持っていても、それを使っていても、そこに愛がなければ、その奉仕は無駄です。
むしろ、それは奉仕ではありません。
2011年の東日本大震災の時、多くの人が東北にボランティアに行きました。
僕も関西の神学校にいた時、車でボランティアに行きました。
被災地でのボランティアで現地の人が一番辛いのは、「自己満足」ボランティアです。
自己満足とは、相手を本当に助けたいとか、相手のニーズにしっかりと向き合うのではなく、「自分がボランティアしたい」からボランティアをしている人です。
ただ、被災地に行ってボランティアした自分、いいことしている自分に酔いたい人。
周りから評価されるために、誰かに命じられて、ボランティアする人。
現地の人は、ほぼ確実に、このようにズレている動機でボランティアに来ている人に気づくと言います。
そのような人は、逆に奉仕されにボランティアに行きます。
え?意味わかりませんよね。
こういうことです。
「ボランティアに行くの、寝る場所を用意してください」と被災地に連絡する人。
食べ物や飲み物を要求する人。
被災地の対応にクレームを入れる人。
必要のない無駄な物資を大量に届けて、被災地に負担をかける人。
奉仕するはずの人が、なぜか被災者に奉仕されようとする。
この原因は、相手への愛がないからです。
奉仕の動機が、相手への愛ではないということです。
愛とは、次のような態度や行動に表れます。
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
聖書(1コリント13:4-7)
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
これらの態度が身に付いていない場合。行動に現れない場合。
その人の奉仕は、奉仕のようで、奉仕ではありません。
むしろ、誰かがあなたを奉仕するハメになります。
愛の奉仕は、自己犠牲に表れます。
そのモデルは、キリストです。
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
聖書(ピリピ2:6-8)
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
自分の命を捧げるに至るまで、相手に仕える。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
聖書(ヨハネ15:13)
利益を求めない無償の奉仕。それが世の中の定義する奉仕ですが、聖書はさらに、自分の命を捧げるほどの奉仕です。
プラマイ0ではなく、むしろ、相手のためにマイナスを厭わないもの
それは、愛が土台になっていないと無理です。
③他人の必要を満たすこと。
体(物質的な必要)
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
聖書(マタイ25:35-36, 40)
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
魂(感情的な必要)
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
聖書(1テサロニケ5:14)
霊(霊的な必要)
私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。
聖書(ローマ15:2)
例
イエス様は、人々の必要を体、魂、霊全ての必要を満たされました。
イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
聖書(マタイの福音書4章23節)
聖書を教え、福音を宣べ伝えることで、魂と霊を満たしました。
それだけではなく、実際に、病気のものの体を癒しました。
ガリラヤ全土を巡ってとあるので、足を使い、多くの人に実際、会って、たくさん話をしました。
話を聞いたことでしょう。
ザアカイという取税人の家で食事をしたように、多くの交わりもしました。
これが、他人の必要を満たす「奉仕」のモデルです。
なぜ、奉仕をしなければならないのか?
でもそもそも、なぜ、教会が奉仕しなければならないのでしょうか?
それは、必要を持っている人がいるためです。36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
聖書(マタイ9:36-38)
37 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
38 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
壊れた家族、自殺、疲れ果てたビジネスマン。
必要を求める人が見えませんか?
もし、気づかないとしたら、あなたは、自分のことしか考えていません。
自分の必要を満たすためばかり考えて生きている限り、他の人の必要に気づきません。
ほとんどの人は、仕事を頑張ります。
人のため、社会のためと口では言います。
でも、実際、お金という対価が大きいのです。
もし、給料が半分になっても、あなたは今の仕事続けますか?
もちろん、ただで働くのがいいと言っているわけではありません。
でも、お金を求めて、働くのか。
働いた結果、お金が神から来るのか。
この違いは大きいのです。
なので、人のために働いてますという人も、結局は、お金のために働いている可能性が高いのです。
つまり、この世のほとんど全ての人。
クリスチャンであっても、自分以外の誰かのために奉仕する人が不足しているので、イエス様は、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われたのです。
ここのでの働き手は、神と人のために奉仕している人のことです。
金のために働いて、一応、神と人のためになっているじゃん?っていう人ではありません。
でもこれって、実際、ほとんどの人がドキってしたのではないでしょうか?
みんな、自分の生活のこと、人生の問題でいっぱいいっぱいです。それが現実でしょう。
くそ忙しい時に、誰が他の人のために奉仕するのでしょうか?
こんな、経済的にも、色々と大変な時に、誰が他の人のために奉仕するのでしょうか?
それは、キリストの愛の奉仕を体験している人だけが可能です。
それがクリスチャンであり、その集まりの教会であるのです。
キリストの愛の奉仕とは何でしょうか?
先ほども触れましたが、あなたの罪のために、ご自身の命をささげた十字架の死です。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
聖書(マルコ10:45)
キリストに命がけて愛してもらって、仕えてもらったのに、自分のためにだけ働いているのはとても残念です。
43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
聖書(マルコ10:45)
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
キリストがこのように言っておられるのです。
これが、教会の5番目の機能である奉仕なのです。
教会の使命とも言えます。
ガーデンチャーチは多くの奉仕者を必要としています。
なぜなら、私たちの周りには、必要を求める多くの人々がいるからです。
みんな、自分の生活のこと、人生の問題でいっぱいいっぱいです。
くそ忙しい時に、誰が他の人のために奉仕するのでしょうか?
こんな、経済的にも、色々と大変な時に、誰が他の人のために奉仕するのでしょうか?
誰もがやりたくない時。誰もがやらない時。
教会の出番です。
私たちがやるのです。
今日、考えてみましょう。
あなたが誰かのために奉仕できることは何でしょうか?
終わりに
奉仕とは、
- ①賜物を用いて、 聖書(1ペテロ4:10)
- ②愛によって、 聖書(1コリント13:1-3)
- ③他人の必要を満たすこと。
です。
あなたの賜物は何でしょうか?
神は奉仕のために、あなたにその賜物を与えられたのです。
なぜ、キリストはあなたを命懸けで愛したのでしょうか?
あなたもその模範に倣って、誰かに奉仕するためです。
そもそも、なぜ、教会が奉仕しなければならないのでしょうか?
それは、必要を持っている人がいるためです。
奉仕の原動力は、キリストの奉仕です。
キリストに仕えてもらった人が、仕えるのです。
あなたが、家族の誰かに奉仕するときに、家族は変わります。
あなたが、会社の誰かに奉仕するときに、会社は変わります。
家族と会社が地域に奉仕するとき、社会は変わり、国が変わっていくのです。
信仰によって、一緒に一歩踏み出していきましょう。