試練の意味「癒しがゴールではない?」聖書(2列王記5:1-15)

20210905
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1 アラムの王の将軍ナアマンは、 その主君に重んじられ、 尊敬されていた。 【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。 この人は勇士で、 ツァラアトに冒されていた。
2 アラムはかつて略奪に出たとき、 イスラエルの地から、 ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。 彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3 その女主人に言った。 「もし、 ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、 きっと、 あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。 」
4 それで、 ナアマンはその主君のところに行き、 イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、 と告げた。
5 アラムの王は言った。 「行って来なさい。 私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。 」そこで、 ナアマンは銀十タラントと、 金六千シェケルと、 晴れ着十着とを持って出かけた。
6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。 「さて、 この手紙があなたに届きましたら、 実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、 彼のツァラアトを直してくださいますように。 」
7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、 自分の服を引き裂いて言った。 「私は殺したり、 生かしたりすることのできる神であろうか。 この人はこの男を送って、 ツァラアトを直せと言う。 しかし、 考えてみなさい。 彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。 」
8 神の人エリシャは、 イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、 王のもとに人をやって言った。 「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。 彼を私のところによこしてください。 そうすれば、 彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。 」
9 こうして、 ナアマンは馬と戦車をもって来て、 エリシャの家の入口に立った。
10 エリシャは、 彼に使いをやって、 言った。 「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。 そうすれば、 あなたのからだが元どおりになってきよくなります。 」
11 しかしナアマンは怒って去り、 そして言った。 「何ということだ。 私は彼がきっと出て来て、 立ち、 彼の神、 【主】の名を呼んで、 この患部の上で彼の手を動かし、 このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
12 ダマスコの川、 アマナやパルパルは、 イスラエルのすべての川にまさっているではないか。 これらの川で洗って、 私がきよくなれないのだろうか。 」こうして、 彼は怒って帰途についた。
13 そのとき、 彼のしもべたちが近づいて彼に言った。 「わが父よ。 あの預言者が、 もしも、 むずかしいことをあなたに命じたとしたら、 あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。 ただ、 彼はあなたに『身を洗って、 きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。 」
14 そこで、 ナアマンは下って行き、 神の人の言ったとおりに、 ヨルダン川に七たび身を浸した。 すると彼のからだは元どおりになって、 幼子のからだのようになり、 きよくなった。
15 そこで、 彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、 彼の前に来て、 立って言った。 「私は今、 イスラエルのほか、 世界のどこにも神はおられないことを知りました。 それで、 どうか今、 あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。 」

聖書(2列王記5:1-15)

はじめに

神を信じるに至った人を見てみると、共通点があります。
それは、人生において自分ではどうしようもない困難や試練があることを受け入れ、神の存在を認めた人たちです。

しかし、多くの人は「俺困ってないから」「そんなこと本気で信じてるの?」と神を信じたり、神を求めたりしません。
まるで、神なしで自分が存在しているとでも言ってるようです。

しかし、真実は、私たちは、無料で太陽の光を浴び、自分で作ったわけでない魚を食べ、自動で心臓が脈打って生きています。
これらは神が創造し、私たちを生かすために無償で与えてくださっているものです。

今日の箇所で出てくるナアマン将軍もまた、成功の源は神の祝福であったことを悟れない人でした。

1節をご一緒にお読みしましょう。

ナアマンの成功の理由

1 アラムの王の将軍ナアマンは、 その主君に重んじられ、 尊敬されていた。 【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。 この人は勇士で、 ツァラアトに冒されていた。

聖書(2列王記5:1)

実は、この一節にすでにこの物語のポイントが書かれています。

【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。

つまり、「彼の成功はイスラエルの神のおかげだった」ということ。

「それをナアマンは悟ることができるか?」という問いを、この一節で聖書は私たちに与えています。

ナアマンがそれを悟るためには、大きな壁がありました。
彼は、王にまで尊敬されていた強大国アラムの将軍。成功者だったからです。

時に、成功は私たちと神様との間を開く要因にもなり得ます。
「神なしで俺がやった」と勘違いする場合は多いからです。

しかし、このナアマンを神様に近づけた出来事がありました。
ツァラアトです。

ある時、成功者の彼はこの皮膚病にかかったのです。

ナアマンのツァラアト

聖書に出て来るツァラアトは、今日のらい病、ハンセン病とは違います。
レビ記13によると衣類や壁にもできるからです。

ツァラアトのポイントは、宗教的な汚れ、神からの断絶です。
ツァラアトに犯されているものは、幕屋から隔離されなければなりませんでした。

1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に命じて、 ツァラアトの者、 漏出を病む者、 死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。
3 男でも女でも追い出し、 彼らを宿営の外に追い出して、 わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。 」

聖書(民数記 5:1-3)

ナアマンがツァラアトに冒されることによって、異邦人の彼が神様の救いの契約から離れている暗示と読み取ることができます。

しかし、その神から離れている異邦人のナアマンがまるで神様に引き寄せられて行くように、物語は進んで行きます。

2 アラムはかつて略奪に出たとき、 イスラエルの地から、 ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。 彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3 その女主人に言った。 「もし、 ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、 きっと、 あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。 」

聖書(2列王記5:2-3)

サマリヤにいる預言者とはエリヤの後を継いだエリシャのことです。

ナアマンは、誰も治しすことのできないツァラアトを治すために、藁をも掴む思いで、敵国イスラエルに行くことを決めます。
しかも、当時のアラムは強大国であり、イスラエルは弱小国でした。

ナアマンは、次のことをしました。

①敵国イスラエルの女奴隷のいうことを聞いた。4節

4 それで、 ナアマンはその主君のところに行き、 イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、 と告げた。

聖書(2列王記5:4)

②贈り物をした。

5 アラムの王は言った。 「行って来なさい。 私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。 」そこで、 ナアマンは銀十タラントと、 金六千シェケルと、 晴れ着十着とを持って出かけた。

聖書(2列王記5:5)

600人分の年間賃金。今でいう、30億くらいです。

これらは、皆、天下のアラムの大将軍のプライドを捨てなければできないことです。

そして、

③馬から降りて入り口に立った。9節 4:15

9 こうして、 ナアマンは馬と戦車をもって来て、 エリシャの家の入口に立った。

聖書(2列王記5:9)

これは最大限の敬意。

ところがどっこい、肝心の預言者エリシャの対応は、ナアマンの想像とは違っていました。

10 エリシャは、 彼に使いをやって、 言った。 「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。 そうすれば、 あなたのからだが元どおりになってきよくなります。 」

聖書(2列王記5:10)

まず、エリシャは家から出てきませんでした。
天下のアラム王国の大将軍様が、入り口に立ってまで、「へりくだって」いるのに、エリシャは使いをやって「ことば」だけを伝えたのです。

門前払いのように思える行動に、ナアマンのプライドはズタズタです。
「この野郎!無礼な!」

11 しかしナアマンは怒って去り、 そして言った。 「何ということだ。 私は彼がきっと出て来て、 立ち、 彼の神、 【主】の名を呼んで、 この患部の上で彼の手を動かし、 このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。

聖書(2列王記5:11)

しかも、そのエリシャの伝言の内容もめちゃくちゃに思えました。

ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。

ヨルダン川は、汚い川でした。
今回のツアでもヨルダン川に行きましたが、とても入りたい川ではありませんでした。

おそらく、ナアマンも川に浸かるなら、もっと綺麗な川がアラムにもあるじゃないか!と怒ったのでしょう。

12 ダマスコの川、 アマナやパルパルは、 イスラエルのすべての川にまさっているではないか。 これらの川で洗って、 私がきよくなれないのだろうか。 」こうして、 彼は怒って帰途についた。

聖書(2列王記5:12)

しかも、7回ヨルダン川に身を浸すなど、まともな頭では理解できるような指示ではありません。

なぜ、エリシャはこのような対応をしたのでしょうか?
それは、預言者の威信を守るためだとか、ツァラアトの人との接触を避けたからではありません。

銀と金と引き換えにツァラアトをいやそうとやって来たナアマンに、この世の富や誉れよりも、それを与えてくださった主権者なる神にひざまずくように導くためでした。

彼が、敵国の女奴隷のアドバイスに従い、膨大な金銀を携え、入口で立っていたのは、プライドを捨てなくてはできない行為でした。
しかし、それでは不十分ということです。

神様に近づくには、徹底的なへりくだりが必要です。

ヨルダン川で7度身を洗うようにとの「みことば」は、ナアマンが神に従うかどうかを試みるものでした。

神のことばに従う試み

ローマの百人隊長がイエス様に褒められた話をご存知でしょうか?

5 イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
6 言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

聖書(マタイ8:5-10)

ただ、神のみことばに従えるか?
それだけです。
しかし、たったそれだけのことに従えるかが試されるのです。

あの謙遜なナアマンが怒りました。

自分は他の人よりも少しは謙遜だと思っておられる方いませんか?

みことばと格闘するときには、どんなに謙遜と思われる人でも、怒りがでるのです。

本当の自我がでます。
なぜ?自分の思い通りに行かないから。

しかし、なんと神様は、激おこぷんぷん丸のナアマンが神様の御言葉に従えるように助け舟を出します。
神様はすごいですね。
ナアマンが怒ることくらい織り込み済みです。
むしろ、「待ってました」と言ったところでしょうか。

13 そのとき、 彼のしもべたちが近づいて彼に言った。 「わが父よ。 あの預言者が、 もしも、 むずかしいことをあなたに命じたとしたら、 あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。 ただ、 彼はあなたに『身を洗って、 きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。 」

聖書(2列王記5:13)

要するに、簡単にできることなんだから、したらどうですか?ということです。
もう、あまりにも直球です。でも、正論ですね。そうです。みことばには素直に、「はい」とできるんです。
するか、しないかのボールは常に私たちにあるのです。

彼は結局、言われた通りにします。

14 そこで、 ナアマンは下って行き、 神の人の言ったとおりに、 ヨルダン川に七たび身を浸した。 すると彼のからだは元どおりになって、 幼子のからだのようになり、 きよくなった。

彼はどうなったのですか?きよくなりました。
ツァラアトが癒され、異邦人の彼がきよくなったことです。

これは、ただの癒しとは意味が違います。
なぜなら、ツァラアトの癒しはメシアにしかできないからです!

イエス様ご自身が、このように言われました。

また、 預言者エリシャのときに、 イスラエルには、 ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、 そのうちのだれもきよめられないで、 シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。 」

聖書(ルカ 4:27)

つまり、異邦人ナアマンの救いは、今から2000年前にメシアなるイエスさまを通して救いが異邦人に広がることの雛形です。
そして、イエス様がメシアとして来られた目的、それは、ナアマンの告白そのものです。

全ての人が、「イスラエルのほか、 世界のどこにも神はおられないことを知る」ことです。

30 すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。
31 それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。

聖書(マタイ 15:30-31)

終わりに

今日、神様が私たちに語っておられることは何でしょうか?
神様は、私たちを救いに導くために、試練や苦しみを許されることがあります。
ナアマンのツァラアトのように。
しかし、その問題の解決がゴールではありません。

試練を通して、私たちのプライドが砕かれ、みことばに従い、この聖書の神が生きておられることをあなた自身が、そしてあなたの周りの人が、世界が知ることを神は望んでおられるのです。

来週は、聖霊キャンプがあります。

みなさん、聖霊を体験したいでしょう。
もっと、神を体験したいでしょう。

聖霊に満たされたいでしょう。

そのために、私たちは、徹底的なへりくだりと、神の言葉そのものをただ信じる信仰が必要だと、今日、神様は私たちに語っておられます。

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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