弟子の必要「溺れる人を見て何も感じない?」 聖書(マタイ10:9-15)

20220717
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9 胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
11 どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

聖書(マタイ10:9-15)

はじめに

宣教の働きに欠かせないことは何でしょうか?
色々なことがあると思いますが、私は、「人々に対する神さまの心」だと思います。

私はクリスチャンの母の影響で、生まれてからずっと教会に通っていました。
でも、小学生高学年、中学、高校と、自分がクリスチャンであること、教会に通っていることを隠していました。
友達が私の家に遊びに来ると、真っ先にしたことは、聖書を隠すことでした。

その原因は、私は小学5年生の頃に、同級生の女の子にみんなの前で「ゆうき、キリスト教信じているの?気持ち悪い!」と拒絶された経験をしたからです。

でも、大学の時に、教会のユース礼拝に行くようになって、私は聖霊様に触れられました。
その時から、自分でも不思議なくらい、「人にイエス様のことを伝えたい!」という思うが内側から溢れてきて、多くの友達を教会に連れて来るようにまで変わりました。

誰かの救いのために祈ると、心が熱くなって涙が止まらなくなるのです。
「人々に対する神さまの心」が溢れて来るのがわかったからです。

宣教の働きは、宣教師のような特別な人、伝道の賜物を持った人だけがするものではありません。
やってもいいし、やらなくてもいいというものでもありません。
私たちがキリストの弟子だから、義務感でいやいやすることでもありません。

主の「人々に対する神さまの心」を知ったからこそ、居ても立ってもいられなくなることなのです。

今日は、3回シリーズの3回目、「弟子の必要」というタイトルで、マタイの福音書から共に学んで行きましょう。

弟子の必要

9節-10節を見て見ましょう。

9 胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

ユダヤ人なら誰でも旅行に出るときは、袋や二枚目の下着、くつ、杖を持っていきました。
しかし、イエス様が12弟子を働きに遣わす時は、このような必需品さえも持たずに行きなさいと命じられたのです。

これは、現代の私たちも同じように、宣教旅行に出るときは、着替えを持って行ってはいけないという教えではありません。

これは何を表しているのでしょうか?

これは、宣教の働きの「優先順位」と「緊急性」を表しています。

11節を見たらわかるように、泊まる場所も決めてからいくわけではありません。

11 どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。

ここでも、大切なことは、宣教の働きの優先順位、緊急性です。

10節には、働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。とあります。

10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

これは、もし、私たちが宣教の働きを最優先にするならば、神ご自身は、それに伴う必要を必ず満たされる。という意味です。

まさに、イエス様がこう言われた通りです。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

聖書(マタイ6:33)

なぜ、福音を伝えることを、最優先にしなければならないのか?
それは、宣教の働きは緊急を要することだからです。

なぜ、緊急を要するのでしょうか?
それは、今も滅びに向かってゆく魂がいるからです。

イエス様は、その魂を失われたと言われました。

6 イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

失われた羊?

イエスさまを信じていない人は、神さまとの関係が断絶しています。
つまり、関係が断絶していては、永遠のいのちを持っていません。

なぜなら、聖書に、永遠のいのちとは神を知ることとあるからです。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

聖書(ヨハネ17:3)

つまり、神を知らなければ、永遠のいのちがなく、死んだら永遠の滅びに言ってしまうということです。

このことを、イエスさまは失われた羊と比喩したのです。

皆さんは、どうでしょうか?
この宣教の優先順位と緊急性を持っているでしょうか?

優先順位と緊急性

まず、優先順位はどうでしょう?

神さまのことを伝える、証しする宣教の働きを一番においているでしょうか?

まず、前提として、聖書は宣教の働きを宣教師や牧師だけがすると言ってません。
全てのクリスチャンがすることだと言っています。

これは信徒獲得とか、宗教の布教活動といった意味ではありません。

大切な人に、「神さまに愛されていることを知って、永遠のいのちを持ってほしい」そのような愛の心からくるものです。

もし、あなたの大切な人が、何も知らずに地獄に行ってしまうなら、あなたはどうしますか?
もし、あなたの大切な人が、崖に向かって車を走らせており、気づいていなければどうしますか?

仕事をしている場合じゃないですね。手を止めて、その人に伝えるでしょう。
電話でも、叫んでも。

「そっちは危ないよ!」と。

これを聞く人は嫌かもしれませんが、聖書ははっきり、天国と地獄があることを示しています。
永遠のいのちと永遠の滅びがあることを伝えています。

そのためには、神に戻ることが重要です。

人生の方向転換ですね。
人生の方向が自分や、何かも目標に向いていたものを、神に向けるだけです。

そんな簡単なことを、伝えるのが宣教なんです。

優先順位がずれている人は、福音を伝えることを後回しにします。

お金が貯まったら。
仕事がうまく行ったら。
もっと、スキルを磨いたら。
信仰が成長したら。

それらは大切です。
でも、今日の箇所を見ると、まずは「人々のもとに行け」。

そうすれば、後から必要がついてくるんだと。

もちろん、人に福音を伝えるにはスキルも重要です。
関係作りも大切です。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまと毎日一緒に寝泊まりして、訓練を受けていたのですから。

しかし、訓練を受けたら、できるようになるとも限りません。
12弟子はみんな裏切りました。

彼らが本当の意味で、宣教を押し進めていったのは、聖霊が降った後です。

イエスさまはそのことを預言しておられました。

人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

聖書(マルコ13:11)

だから、まず今日、覚えたいことは、優先順位は、宣教に行くことです。

しかし、優先順位が定まらない本当の原因は、緊急性を感じていないということです。
皆さんは、このキリストの福音を誰かに伝えることに、緊急性を感じていますか?

緊急性とは、先ほどの例えの、崖に向かって進む車に対して、「おいおい!やばいぞ」と連絡しようする緊急性です。

ユースフォークライストのオズワルト・スミスはこう言っています。

「溺れる子達を見て苦痛を感じながら、滅び行く魂のために苦しみを感じないということがあるでしょうか。幼い子どもが、もがきながら、水中に沈んでいくのを見て泣くのは、難しいことではありません。その時の苦痛は自然です。私たちが地上で愛してきた人の死体が棺に入れられ、家から運び去られるのを見て嘆くのは難しくありません。そのようなとき、涙は自然に流れ落ちるのです。しかし、かけがえのない魂、そして決して死ぬことのない魂が私たちの周囲で滅び行き、暗黒と絶望の暗闇に押し流され、永遠に失われていくのを知って、なお、なんの苦悩も感じなく、涙も流さず苦痛も感じないとは!何と私たちのこの心は冷ややかなのでしょう。」

また、1800年代アメリカのリバイバルの器、チャールズ・フィニーは、「失われた魂の救いのために神に願うときは、全く言葉がでず、ただうめき泣くだけであった」といっています。

もし、魂への情熱があればいてもたってもいられないはずです。なぜなら、イエス・キリストを知らない魂は永遠の滅びにいくからです。
そして、イエスさまは憐れみ深いお方です。天の父なる神は憐れみ深いお方です。もし、私たちがこのように冷淡であるとすれば、私たちの側に問題があるということです。

私が、この失われた魂に対する主の緊迫した心をより深く悟ったの出来事がありました。

私は献身する前、三年間銀行に勤めていました。
しかし、2010年、母教会である札幌の教会の礼拝で、献身を決意します。

海外から来ていた日本人の宣教師がメッセージされ、メッセージの最後に招きがありました。

それは、聖書(イザヤ6:8)「誰を遣わそう。誰がわれわれのために行くだろうか」という御言葉に答える者はいるかというチャレンジでした。

勇気を出して、講壇の前に進みました。
その時、今まで経験したことのない主の圧倒的な臨在の前に涙がとまりませんでした。

主はその時、「ついて来なさい」と言われました。

私は「いつですか?」と聞きました。
「今だ」と、とても早く強い口調で主は答えられました。
私はもう一度「いつですか?」と聞きました。また、強く「今だ」と答えられました。

私はその臨在の故に断ることなどできませんでした。
主は続けて「服を脱いでついて来なさい」と言われました。
主に「どういう意味ですか?」と聞くと、ペテロがすぐに網を捨てて、イエスさまについていった聖書の箇所を思い出しました。
そして、網はペテロの仕事道具であるが、私にとって主の言われた服とは仕事着のスーツのことだと悟りました。
祈った後、平安が与えられたので、課長に辞めることを告げに行きました。

私はそのときの主のとても早く強い、「今だ!」という声を忘れられません。
それは、私が思う以上に、主は緊急を要する働きに、私を遣わしたいのだと感じたからです。

もし、私たちが伝えても、拒む人がいるならば、その人の責任です。

14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

しかし、伝える責任は私たちにあります。宣教の働きは私たち弟子に委ねられているのです。

終わりに

「弟子の必要」とは何か?

弟子の必要は神が満たします。
でも、もっと大事なのは、優先順位と緊急性を持っているかどうかです。

それが、キリストの弟子に必要なのです。

イエス様は、福音を伝えることを優先する弟子を探しておられます。
それは、多くの人々が、未だにキリストを知らないからです。
まるで、失われた羊のように。

誰が、福音を伝えるのでしょうか?
それは、キリストの弟子である私たちです。

神様はお一人でもおできになられます。
しかし、驚くことに、この働きを私たちにお委ねになられました。

主はあなたを必要としておられます。
あなたはどう答えますか?

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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