苦難以外に自分を強めてくれる手段はないのか? 「苦しみ好きクリスチャン多し」

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今回は、「苦難以外に自分を強めてくれる手段はないのか?」という疑問について、聖書にどのように書かれているのか説明していきます。

このクリスチャンQ&Aシリーズでは、クリスチャンに関わる素朴な疑問から、少しディープな問題、普段はなかなか聞きにくい内容…等について、洗礼を受けて3年の筆者みずきがゆうき牧師に質問をしていき、聖書をもとにわかりやすく解説していくシリーズとなっています。

この記事の内容はYouTubeでも話しているので、よかったらYouTubeも見てくださいね!

取り上げて欲しい疑問や話題があれば、ぜひYouTube動画のコメントでリクエストをお願いします。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

今回の質問は何ですか?

みずき
みずき

こちらは東京から札幌ガーデンチャーチに来てくださった方が、礼拝後の分かち合いの時間に実際に質問されていた内容です。

「苦難以外に、自分の信仰を強めてくれる手段はないの?」という質問です。

苦難がないと強められない?

みずき
みずき

私なりに調べてみました。
クリスチャンの方で詩を書かれる水野源三さんという方がいて、その方は小児脳性麻痺で小さい時から瞬きでコミュニケーションを取られる方だったんですが、その方が福音を信じて書いた詩です。

『もしも私が苦しまなかったら
神さまの愛を知らなかった
もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神さまの愛を伝えられなかった
もしも主なるイエスさまが苦しまなかったら
神さまの愛はあらわれなかった』

という詩です。
クリスチャンなら苦難がなくなる、ということではないのは聖書の色々な所に書かれています。

他の宗教のことは詳しくないですけど、信じたら全部、楽になるとか、悟りを開くとかが多くないですか?

ゆうき牧師
ゆうき牧師

ゴールはそこだよね。無になって煩悩から解放される、みたいな。

みずき
みずき

信じれば苦難がなくなるかのように思えるような宗教は多いように思います。

聖書は、信じれば救われるって書いてるけど、苦難がなくなるとは書いてないですよね。

今回の質問は、「苦難以外に自分を強めてくれる方法ないのか?」という疑問でしたが、「苦難」の対義語を調べてみました。そうしたら、「苦難」の対義語は「快楽」だったんです。

「快楽」で自分は「信仰強まるだろうか?」って考えたんですが、それはちょっと難しいと思いました。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

快楽って、誘惑に陥ってダメになりそうな感じがしますね。信仰が強まるよりむしろ逆に行きそう。

みずき
みずき

ダビデが、神様から全てのものを与えられたとき、誘惑に陥ったという場面もありましたよね。

対義語で考えるのは極端な話になってしまいますけれど、やっぱり苦難以外に何か訓練させられることって、人間には難しいのかなと思いました。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

はい、同感です。

強められる、鍛えられるためには「苦難」は必要だと考えます。

ただ、きよめられるとか、神様をもっと知っていくという意味だとしたら、苦難以外でも、神様の力で日々内なる人が作り変えられていくとか、内なる人が強くなっていく、と聖書に書いてるので、苦難以外を通して神様が働かれることはあると思います。

苦難によって強められるが、それ以外で神様を知ることもある

ゆうき牧師
ゆうき牧師

なぜかと言うと、神様は全てのことを通してその人の益になることをしてくださるので、苦難以外でも神様がその人を強めてくださることはあるのかなと思います。

例えば、僕らが苦難に遭わなかったとしても、キリストの苦難によって僕らが救われている。僕らは恵みによって救われて、強くされるとあるります。

なので、もう僕らはある意味苦しまなくても救いは得ることができるので、苦しまないと強められないという考えは、もしかするとヒューマニズムかもしれないです。

みずき
みずき

確かに、修行のような感じですね。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

福音というのは、僕らはもう苦しむ必要はなくて、イエス様のおかげで救われた、こんな私がいいんですか?という感覚ですよね。

ある人が言いました、「クリスチャンって図々しくないですか?」と。でも、図々しいぐらい、ただただ神様からの恵みなんですよね。

しかし、「この世にあっては患難がある」と聖書にあるので、苦しみは必ずあるし、神様は、この罪だらけの世の中で、苦しみを通して私たちを訓練するということはあります。

理由は、クリスチャンをこの世に送り出すのはオオカミの群れの中に羊を送り出すようなものだと聖書に書いているので、オオカミがたくさんいる中で、いつも神様が守っていくと、ずっとベイビークリスチャンじゃないですか。

でも、成熟した大人のクリスチャンは、逆にオオカミの中に行って他の羊を助けに行くような感覚です。

「苦難」は成熟したクリスチャンになるために有益

ゆうき牧師
ゆうき牧師

その成長したクリスチャンは、簡単にオオカミにやられてしまうのではなくて、信仰によってオオカミを退けるぐらいの強さを持っていく。

ダビデも羊飼いの時に、ライオンとか熊が来ても石ころで対抗できる訓練をしたんですよね。それは「苦難」を通しての訓練ですよね。

天国なら、熊もライオンと一緒に寝るって書いてあるから、襲われることはないですが、この世にあっては苦難や災難はあります。

神様の視点で見るならば(僕が神様の視点でと言うのもおこがましいですけれども)、おそらくこの世で強くなって欲しいと思うなら、「苦難」を通して訓練するだろうなと思います。

自分の信仰を強める方法、訓練されると言う意味においては、「苦難は必要」です。聖書に「苦難を喜べ」って書いてあるから、「苦難が来たってことは、成長できる!」というモチベーションにもなるかもしれませんね。

ただし、苦難以外でも神様は何かを通して、私たちの信仰を強めるきっかけを与えてくださることもあります。

なので、苦難を通らなかったら絶対信仰強まらないから「頑張れ、苦しめ」という話でもないんです。
苦難が全てではないですが、苦難は私たち人間の訓練のために有益だということです。

まとめ

Q .「苦難以外に、自分の信仰を強めてくれる手段はないの?」
A .自分の信仰を強める方法、訓練されると言う意味においては、「苦難は必要」です。
 ただし、苦難以外でも神様は何かを通して、私たちの信仰を強めるきっかけを与えてくださることもあります。
 苦難が全てではありませんが、苦難は私たち人間の訓練のために有益だということです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。このメッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。

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