怒った時に、その怒りの感情をどこに向けるかで2通りのタイプに分かれます。
怒りを相手に向ける人。
怒りを自分に向ける人。
ちょっと、考えて見てください。
みなさんは、怒りをどちらに向けがちですか?
聖書は、怒りは十字架に向けなさいと言っています。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
聖書(イザヤ53:5)
ここでの「彼」とは、イエス・キリストです。
本来は、この神の怒りを受けるのは、罪を持った私たちでした。
しかし、イエス様は、罪がないのに、十字架で神の怒りを受けて裁かれたのです。
驚くべきことは、イエス様が受けた怒りには、私たちの怒りも含まれています。
私たちが誰かに怒ってしてしまった暴言や暴力を、イエス様は代わりに受けられました。
自分自身に怒りを向けている人は、自分自身に対して攻撃的に「ばか!」「役立たず!」「死ねばいい!」「最悪だ!」と言ってしまうことがあります。
自分で自分を殴りたくなることもあるでしょう。
壁に頭をたたきつけたくなったり、怪我をするとわかっているのにガラスにパンチしたり、リストカットなどによって、実際に自分を傷つけることもあります。
やけ酒や、乱暴な運転、自暴自棄な生活なども、自分自身への怒りと攻撃の表れです。
私たちが誰かに怒り、負わせてしまった傷。
私たちが自分に怒り、追ってしまった傷。
どちらも、正しい行動ではありません。
自分を含め誰かを傷つけたことに対し、言い訳や正当化はできません。
しかし、イエス様はその行き場のない怒りを十字架で背負われることを決められたのです。
それは、私たちが、怒りの本質である満たされない心が十字架の力で満たされるためです。
「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」とある通りです。
それは、私たちが、怒りの本質である傷ついた心が十字架の愛で癒されるためです。
「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」とある通りです。
怒りを人に向かわせて、人を赦さないで裁く人。
怒りを自分に向かわせて、自分を赦さず裁く人。
みなさんがどっちであっても、その裁きは十字架でイエス様が背負われました。
代わりに裁かれたのです。
だから、もう裁くのはやめましょう。
怒りの拳を、十字架の前に持っていきましょう。