心理学の世界では「加害者と被害者は同じ」という見方をします。
誰かに傷つけられたと感じた被害者は、普通、その瞬間に加害者に対して攻撃的・批判的な思いを抱きます。
「あなたのせいで傷つけられた」と誰かに愚痴ったり、何かのアクションを起こす可能性もあります。
たとえ、心の中だけでその相手をうらんでいても、被害者であることを理由に相手を攻撃・批判しているので、その瞬間にその人は加害者に変わります。
そうすると今度は、元の加害者は被害者に変わり、それが交互に繰り返されることになります。
この加害者・被害者の悪循環から抜け出す秘訣は、赦しの祈りです。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
聖書(ルカ 23:34)
イエスは、ご自分に向かってつばきを吐き、むちを打ち、手に釘を打つ者たちのために、赦しの祈りをささげられました。
この赦しは想像すればするほど、人間にはできないレベルであることがわかります。
十字架刑は、囚人を丸裸にして手足を釘で打ち、骨が折れ、全身の水と血が流れ出て死に至るという激しい苦痛を伴う歴史上、最も悲惨で残忍な処刑方法の一つでした。
どう考えても、イエスは被害者です。
聖書によるとイエスは罪を犯しませんでした。
しかし、この十字架の苦しみを受けた時に、罪を犯す最大の試練がありました。
「あなたたちに傷つけられた!」と憎しみや恨みを持った瞬間、被害者が加害者になるからです。
人々は、イエスを十字架につけ、まるで戦利品を分けるようにしてくじを引き、イエスの着物を分けました。
イエスがまるで敗北者のように見えますが、決してそうではありません。
「父よ、彼らをお赦しください」という祈りによって、加害者・被害者の悪循環という無限ループに対して、完全に勝利されたのです。
加害者を赦すということは、加害者を愛するというそれ以上の意味があります。
イエスは、加害者が悔い改めるよりも先に、十字架ですでにすべての罪を赦してくださいました。
過去の罪だけでなく、これから犯す、すべての罪まで、完全に赦してくださいました。
ここで、心に留めたいことがあります。
私たちにはこの被害者・加害者のループをとめることはできません。
十字架につけられて、このように祈れるのは人間には不可能です。
しかし、イエス様がされたので、それでいいのです。
私たちは、被害者になった時、「憎しみや怒り」を持ったままイエス様の元にいけば良いのです。
聖書は、このようにいいます。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
聖書(ヘブル4:15)
同情してくださるのです。
そして、「憎しみをもち」すでに加害者になってしまっている私たちの罪を含めて「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくれたのです。
なので、自分で解決しなくても大丈夫です。そのままの感情をイエス様に持っていきましょう。