- お母さんが「私なんかの子どもでごめんね」と子どもに罪悪感を持っていると、その子どもはその罪悪感をコピーして「私が子どもでごめんね」という感情を持つようになる。
- パートナーがいつもハードワークによる罪悪感で苦しんでいる。そのパートナーを助けるために、自分もハードワークをすることによって感情的つながりを得ようとしてしまう。
このような人は、愛する人を助けたいという気持ちが強いため、相手が背負っている罪悪感を、自らも背負おうとします。
他人との距離感があまりにも近くなり、心理的に接着材のようにくっつく状態を「癒着」と言います。
「癒着」は共依存とも言い換えることができ、「自分」と「相手」との適切な距離感をとる必要があります。
聖書は、他人の十字架でなく、自分の十字架を負いなさいと言っています。
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
聖書(ルカ9:23 )
このイエス様の言葉の中には、「自分」という言葉が2回も出てきます。
私たちは、誰かの十字架、言い換えれば「苦しみ、問題、罪悪感」を背負うとしてしまいます。
しかし、誰も他人の十字架を背負うことはできません。
背負えるのは、神の子であるイエスキリストだけです。
では「自分の十字架を負う」とは何でしょう。
その前に「自分を捨て」、後に「従う」とあるように、イエス様に従うために、自分の欲望や自分の成し遂げたいことに死ぬことです。
この「死ぬ」という考えは、癒着を断ち切る鍵です。
手放すと言ってもいいかもしれません。
他人が苦しんでいたら、助けたくなりますよね?
助けてください。
でも、「もっと助けなきゃ」とか「これでいいのだろうか」と罪悪感を感じたら、きっぱりとNOと言いましょう。
いったん、手を止めましょう。必要なら距離を取りましょう。
実際に助けているのに、助けたい思いがあるのに、相手が怒ったり、おかしな反応をした場合、相手もあなたに癒着している証拠です。
大丈夫です。あなたが負う十字架ではありません。
あとは、その人が神様との関係で解決する問題です。
それが出来るように、一言、祈りましょう。
そうしないと、癒着はエスカレートしていき、助けているのに、なぜかお互いが苦しみ、傷つけ合うことになります。
イエス様はすでに私たちの罪悪感の元となる罪を十字架上で処理してくださいました。
ですから、自分の罪悪感も背負う必要もないし、他人の罪悪感を背負う必要がないのです。
大切なのは、相手の要求や期待に従うのではなく、まず「罪は赦された」と宣言される神様の声に従うこと。
そして、あなたの大事な人が、神様と個人的につながり、「あなたを含む誰か」ではなく、キリストの十字架が問題の解決であることを自ら求め、体験していくことなのです。
参考文献↓