「神は存在するのか?」
多くの人が、このことを考え、議論されてきました。
また、多くの人が、神を求めてきました。
なぜ、人々は神を求めるのでしょうか?
それは、私たちの誰もが自分を無条件で愛してくれる人を探しており、神以外に見当たらないからです。
また、自分の創造者を知りたいという願いもあるでしょう。
聖書は、祈りは神と出会うための通路、パイプだと言っています。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはaあなたがたに耳を傾ける。
聖書(エレミヤ書 29:12)
聖書の祈りは、ボワんとした対象に、何となくそれっぽいことを祈願することではなく、実際におられる神様とやり取りすることです。
誰かとカフェに行って会話することが普通なように、私たちは祈りを通して見えない神とコミュニケーションをとることができるのです。
目をつぶって見えない神に話しかける姿はある意味、滑稽に見えますが、私たちには大きすぎて、きよすぎて見えないほど偉大な方と祈りによってコミュニケーションが取れることはある意味素晴らしい特権だと言えます。
普通は、私たちが祈る時、すでに対象を意識しているので、神という存在を認識しているように思えますが、
実は、祈りを通して私たちは神をさらに深く認識するのです。
先ほどの箇所では、祈りを三つの具体的な行動に細分化しています。
①呼びかける
まず、「神様!」と呼びかける必要があります。
この呼びかけは、神様を知りたい、求めたいという表れです。
たとえ、私たちが今、神という存在がよくわからなく、いるのかどうかも信じられないレベルだとしても、
最初の一歩は、呼びかけです。
②行く
呼び掛けた後に、神様は「来なさい」と言われます。
神様の懐に飛び込んで良いということです。
③祈る
これは具体的に話しかけるということです。
これらは、まるで子供が安心して父親のもとに行く絵を想像させます。
「お父さん!」と呼び掛け、父親の懐に飛び込む。
そして、その後は、自分の思いを語るのです。
そこまでして自分を愛し、無邪気に飛び込んでくる子供を無視する父親がいるでしょうか?
神様も同じです。
私たちに飛び込んできて欲しいと思っておられます。
しかし、私たちの側に霧がかかっていて、父親が認識できないでいるのです。
神の存在は何となく、信じているけど、誰が本当の神かわからないのです。
その原因は、私たちの「罪」です。
なので、聖書は、イエス・キリストの十字架によって私たちの罪が赦される必要を一番に強調しているのです。
もし、神を知りたいという願いがほんのわずかでもあるなら、祈ってみませんか?
今まで、実際に「呼び掛け」、「懐に飛び込み」「口に出して語りかける」祈りをしたでしょうか?
もちろん、これは神に出会う方法論ではありません。
大事なことは、神を求める心と、十字架による罪の赦しを信じる信仰です。
逆を言えば、自分の罪が十字架で赦され、神を求め祈るならば、私たちがは必ず神に出会うことができるのです。