ある方のブログにこのように書いていました。
右肩上がりに成長しなければならない、という幻想は危険。
1.4億の負債を負ったり、人生というスパンで見れば色んなしんどいこともありました。
仕事とはあまり関係ない所でとんでもない事が起きて心にダメージを負いました。
もし私がずっとずっと、どんな時でも成長しなければならないと思っていたら私は死んでしまっていたかどこかで挫折して倒れていたと思います。
皆さんは、自分の人生が右肩上がりになっていくと思いますか?
それとも、下がったり、上がったり、して最終的には上がっていくイメージでしょうか?
聖書は、人生は右肩下がりでもOKと言っています。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
聖書(ヨハネ3:30)
この言葉を言ったのは、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネという人物です。
彼は、当時のユダヤ教の中では、カリスマ的人物で、たくさんの弟子がいました。
そのような中、ヨハネの弟子たちが、このように報告します。
彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」
聖書(ヨハネ3:26)
弟子たちは、イエスさまが自分の師匠であるヨハネよりも、人気が出ていることに対して、ねたみに満ちた不平を話します。
「師匠、これ、いいんでしょうか?」
競争意識の中にある弟子たちに、バプテスマのヨハネは先程のように答えたのです。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」
あの方とは、イエスさまのことです。
つまり、自分は神と競争関係にいるのではない。
自分の人生の目的は、自分自身にスポットライトが当たることではなく、神様にスポットライトが当たることなんだ、と。
これは必ずしも、自分の人気がさがり、人から忘れられ、みすぼらしく生きれば、神様に栄光が帰されるという意味ではありません。
大事なのは、私たちの心のあり方です。
例え、人生が右肩下がりになっていくように見えても「自分ではなく神様が素晴らしいと心から言えるなら」OKだということです。
自分にスポットライトが当たっている人、自分の成功が第一であり、神様を宗教的に信じている人は、人生が右肩下がりになると神様に文句を言います。
「神様、なぜ、私の人生にこんなことが起こるのですか!」
この発言の中心は、「自分」です。神様に責任はないので、自分が下がることへの不平を神様にぶつけているのです。
もちろん、神様は最高に謙遜なので、このような不平を聞いて、同情してくれるでしょう。
しかし、私たちはヨハネのような心を持ちたいのです。
逆を言えば、人生が右肩上がりになっているように思えても、自分にスポットライトが当たっていない人は、比例して神様が大きくなります。
この成功を与えてくださった神への感謝と畏敬の心が満ちるからです。
無理矢理、人生を失敗させようとする必要もなく、ただ神様を証しすれば良いのです。
人生が、右肩下がりでも神様を礼拝し、右肩上がりでも神様を礼拝するものになりましょう。