「赦し」は行動の後段階で裁かずに受け入れることです。
神様は、私たちに自由意志を与え、本人が罰を受けるとしても、基本的にどんなこともすることを許されています。
また、2000年前に十字架で代わりに罰を受けることで、すでに罪を赦されました。
しかし、問題は、私たちは、人を許せず、赦せないということです。
①私たちは人を許せない
誰もが「許し」の基準を設定しています。
許容範囲といった方がわかりやすいですね。
ネットに「許容範囲が狭い人は心が狭い人」と説明されていて、次のような特徴があるそうです。
- 怒りっぽい
- 他人に厳しい
- 人を否定する
- 自分のために行動する
- 人の成功や幸せを喜べない
- アドバイスが聞けない
相手が、自分の許容範囲を超えた行動をすることを許さないので、結局、関係がギクシャクするのです。
ペテロは、異邦人が「許せない」人でした。
その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。
聖書(使徒10:28)
自分たちユダヤ人は、異邦人と交わることを許されていないと思っていたのですが、「神様は決してそう教えていたわけではない」ということを幻をとおして悟りました。
彼が、神様によって、異邦人との交わりを許容したことによって、ここから福音が異邦人社会に爆発的に広がっていきます。
「何かを許せないとき」、本当に神様もそう言っておられるのか?と心を開いて祈る必要があります。
②私たちは人を赦せない
相手が自分の許容範囲を越えてしまうと、腹が立ちます。
問題は、その後です。
私たちは、その人の行動を赦せないのです。
しかし、神様は、このように強く勧めています。
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
聖書(コロサイ3:13)
誰かがあなたの許容範囲を飛び越える無礼なことをしたと感じても、まずは赦してあげなさいと。
なぜ?イエス様が、あなたを赦してあげたんだから。
実は、他人ではなく、私たちこそが、神様の許容範囲を越えまくり、破りまくりの生活をしていました。いや、今のしています。
もし神様が、「絶対に赦さない」と言われたら、希望はありません。
しかし、神様は、赦してくださいました。
だからこそ、私たちも赦すべきであると聖書は言っているのです。
許す力も、赦す力も、私たちにはありません。
しかし、大切なことは、神様にあるということです。
謙遜に、神の力を受け取るなら、私たちは、人をゆるすことができるようになり、人間関係がよくなります。
それが、神様が望む、隣人を愛し、平和を保ちなさいということにつながるのです。