はじめに
今日は、「神の国」とは何か?について説明します。
「神の国って何?」と聞かれたら、死んだら行く場所、何もない所、スピリチュアル、仙人みないな人がたくさんいる場所(?)、というイメージを浮かべる方も多いかもしれません。だけど、見たことがないので、きっと「何かぼやっとしたもの」ですよね。
この記事を読めば、そんなよくわからない「神の国」が、皆さんにとって「実は身近なもの」で、「本当に大切なもの」だという理解ができるようになればうれしいです。
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神の国とは何か?
結論は一言で言うと、神の国は、 神の支配が及ぶところです。
3つのポイントで、神の国について説明します。
神の支配が及ぶこところ
現代社会で「国」を形作るのは「土地、主権、国民」の3要素ですが、聖書での「国」というヘブル語・ギリシャ語(聖書の原文)の言葉のニュアンスは、支配の力が及ぶとか、統治の力という意味合いが強いのです。「国」の3要素のうちの「主権」はこれに似ているかもしれません。「主権」を持った国は独立していますので自分で国を運営をし、その国の中においては権威を行使します。
神様は創造主として、全世界をお創りになられ、その「国」の支配者として権威を持っておられますが、多くの方が知っている聖書の最初のシーンに神様の権威と支配がよく表されています。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
聖書(創世記1:3~5)
4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
創造の始めに神様は何もなく、世界をおおっていた「闇」を支配されていることを明確にするため、「光」を差し込まれました。「闇」は「心の闇(罪)」、「暗闇」という言葉からもわかることですが、人がその生涯において悩まされるものです。人にはどうすることも出来ない「闇」。これを神様は創造の最初から支配下に置いておられたのです。それだけでなく、神様は人に光(希望)を与える方であることを、記しているのです。
この原則に気が付くと、あなたの心の悩みや重荷は取り去られます。拭い去ろうと何度あがいてもまとわりつく闇が、実は神の支配のもとにあり、全世界を創造された神が「光、あれ。」と言われた時に闇が光と分け隔てられたように、「神の国」の支配、神の言葉の権威を信じ、受け取るならば、一つ、また一つとその闇はあなたから取り去られていくのです。あなたは、今、闇から光へと移されたいと願われますでしょうか。イエス・キリストに望みを置く人々を神様は「神の国」へと招いて下さっているのです。
10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
聖書(エペソ書1:10~12)
11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行なう方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
神の支配は信じる者の内に及ぶ
「神の国」は、天国や再臨の後の神の支配のことを言っていると共に、神の権威を信じる人のうちに「すでに」実現していると、聖書には書かれています。
これは、神の支配が、私たちの内側にまで及ぶことを意味しています。
21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
聖書(ルカ書17:21)
神の国が私たちの内に実現しているというのは、私たちの内面に、神の愛や、神の平安が満たされることを意味します。
そのような神のご性質や力によって支配される(満たされる)人の人生は、非常に安定した人生です。私たちを取り巻く状況や、環境のアップダウンに影響されにくくなるからです
神の国は信じるものに無償で与えられる
このことを理解するために、イエス様はたくさんの神の国についてのたとえ話を使って人々にお話しになられました。その中に「ぶどう園のたとえ」というお話しがあります。
「ある主人が自分のぶどう園で働いてくれる人を雇うために朝早くに出かけ、1デナリという金額で給与を決めて雇いました。9時にも「相当のものをあげるから」と何人かを雇いました。12時にも3時ごろにも雇い、そして5時頃にも仕事がない人達を見つけて「どうして一日中仕事をしないのか」と尋ねました。するとその人たちは「誰も雇ってくれないから」と答えたので、自分のぶどう園で働かせました。6時になり、その日の仕事を終えた雇人達に全員に主人は1デナリを給与として渡したのです。朝早くから働いた者から、わずかの時間しか働かなかった者まで同じ額を支払いました。」
(マタイ20:1~16を要約。)
このたとえ話には「神の国」の特徴が書かれていて、下のような構図になっています。
ぶどう園の主人 = 「神様」
雇われた労働者 = 「私たち」
ぶどう園の主人は道端で立っている人たちを探して、自分の農園で働いてくれるように招きましたが、農園に入った時間はまちまちです。農園に入った時間が違うのは、私たちのそれぞれの人生のステージや、年齢の時に神様から招かれて罪びとの人生から転じて罪赦され、神の子とされ、神のご支配の中に入れて頂くことを表します。
ぶどう園に一番最後に招かれた人々は晩年に神様と出会った人を、逆に朝早くから働き始めた人は若い頃から神様を信じていた人々です。
また、このたとえ話は人の個性にも当てはめることができます。朝早くから働き始めた人は、おそらく自分を売り込むのが上手だったり、見るからによく働けそうな体格で、目立つ存在、いわゆるスキルがある人たちだったと言えるかもしれません。
一方で、夕方から働き始めた人々は、雇われる為に何もしなかったのでしょうか。そうではないでしょう。きっと道に立って働き口を探したでしょうし、旗を振って何とか気が付いてもらおうとしていたかもしれません。
それでも他の人が雇われていく中で時間は過ぎていき、「もうだめだ。あきらめよう」と思った時、ぶどう園の主人が来て「さあ、あなたもどうぞ」といってぶどう園に入れて下さいました。しかも、仕事終わりに頂いた給与は朝から働いている人と全く同じ額で、彼には分不相応な額が支払われたのです。
この報酬が1日の終わりにもらえるものだということから想像すると、報酬は神の国での「永遠の命」のたとえです。夕方から働いた人が頂いた報酬が分不相応であったように、地上での命の後に与えられる「永遠の命」は分不相応で、もらえるような事は何も出来ない私たちにも、神様が「さあ、あなたもどうぞ」と約束の報酬として与えて下さるものです。
「神の国」は人々のうちにありますがその源泉は神であり、神様が私たちを招いて下さり、それに私たちが応答する。その時に、神様からの約束として与えられます。
私たちの働きは小さなもの、全く価値がないように思えるかもしれませんが、神様はよく私たちのことを知っていてくださっていています。そして「さあ、あなたもどうぞ」と神の国での永遠の命、すなわち、イエス・キリストの十字架が「自分の罪の為であった」と信じるように招いて下さっています。
まとめ
結論は一言で言うと、神の国は、 神の支配が及ぶところです。
3つのポイントで、神の国について説明しました
- 神の支配が及ぶこところ
- 神の支配は信じる者の内に及ぶ
- 神の国は信じるものに無償で与えられる
参考:「聖書辞典」(いのちのことば社)
「聖書辞典」(新教出版社)