「もっときちんと仕事しなくては」と完璧主義を持っていると、大ざっぱに仕事をする人に「なんで、もっとこうしないの?」とモヤモヤし、その人を裁き始めます。
他人への厳しい要求は、自分への厳しいルールから来ています。
自分は「いけない」「できない」から、「◯◯すべき、◯◯せねば」と自分を正すために、自分に厳しいルールを課していくのです。
自分が「正すべき存在だ」と思うのは間違っていませんが、自分の存在そのものを否定してしまう危険性があります。
聖書は私たちの罪を否定しますが、存在は肯定しています。
私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
聖書(ローマ7:20)
この言葉を言ったのは、ユダヤ教のエリートであり、後に新約聖書の大半を書くことになった使徒パウロです。
聖書を知れば知るほど、神様に近づこうとすればするほど、完璧どころか、罪深い自分に気づいたというのです。
しかし、彼は「もっときよくなろう」とか、「もっと神のように完全になろう」と努力することはしませんでした。
むしろ、自分自身と、自分の中にある罪とを分離したのです。
もちろん、自分が犯した悪いことを「俺のせいじゃないよ。罪だよ」と責任転嫁したわけではありません。
罪を選択する自分の過失を認めた上で、罪があるからこそ、自分は自分の力で完璧になることは不可能であると悟っているのです。
私たちは完璧を目指しても完璧になれないのです。
そのことを認め、完璧である神により頼むことが聖書の「信仰」です。
ここで注意したいのは、もっと、頑張るために神に求めるのではありません。
弱い、不完全で、罪深いそのままの自分が、神の前で愛され、認められていることを受け入れるのです。
神は、私たちを滅ぼすためではなく、私たちを救うために罪の問題自体を処理しに、十字架にかかり死なれたのです。
それは、私たちを愛しているからです。
『「会社行きたくない」と泣いていた僕が無敵になった理由』という本の中で加藤隆行さんはこう言っています。
「完璧主義者」とは「完璧」を目ざす人ではなく、〝不完全な自分を認められない臆病な人〟です。
自分の「欠乏感」「劣等感」「無価値感」といったココロの穴を埋めるために、「完璧」を求めすぎているのです。
そもそも、人間ですから「完璧」なんてありえません。
だからこその「主義」止まりなのです。
私たちも、完璧主義の裏側にある、自己否定を神の前に出しましょう。
十字架によって神が罪だけを処理されたことを信じましょう。
十字架によって神が無条件の愛を注がれたことを受け取りましょう。