はじめに
今日は、「クリスチャンが何を信じているの」について説明します。
歴史の授業の中で、クリスチャンがイエス・キリストのことを信じているということや、その経典が聖書だと聞いているけれども、いったい「何を、どのように」信じているのかって、実はよく知らないということはないでしょうか?
この記事を読めば、クリスチャンが何を信じているのかを知ることができます。
そうするとキリスト教が身近なものになると同時に、あなたの人生の目標がはっきりと見えて来るようになります。
ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた聖書の終末預言シリーズ動画や、日常生活にすぐに適用できる3分の短い聖書のメッセージ動画をアップしています。「この世はこれからどうなるのか?」「聖書をもっと学んでみたいな」という方は、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。
クリスチャンは何を信じているのか?
クリスチャンが信じているのは「天地の創造主である唯一の神」が、「私たちを愛しておられ」、「私の罪の身代わりとして十字架に架かられた神の御子イエス・キリストが蘇られた」ことを信じる人々は「永遠の命を得る」ということです。ちょっと、長いですが、どれも大切なことなので、一つ一つ見ていきましょう。
天地の創造主である唯一の神
はじめに神が天と地を創造された。
聖書(創世記1:1)
あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
聖書(イザヤ書40:28)
「誰が宇宙を造ったのか」という質問は子供から大人までが、何度もいだく疑問の一つですよね。でも、誰もそれに答えることができる人はいません。人は時間の始めも、 時間の終わりも空間の広がりの始めも知ることはできません。人が知ることができる最高のものは、人間よりも高い力、また尽きることのない知恵をもっている神様です。
ちなみに「聖書」は世界のベストセラーです。その中身は大きく分けると「旧約聖書」と「新約聖書」に分けられていています。「旧約聖書」は一つの民族(ユダヤ民族)を中心に書かれ、「新約聖書」は一人の人(イエス・キリスト)を中心に書かれています。
そのテーマは、「人は罪の結果、神様との正しい関係を失ってしまった。しかし神様は人を愛し、その独り子イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって人の罪を赦し、再び神様との元の関係へ戻ることができる道を開いてくださった」という恵みが書かれています。
神が人を愛している
日本語にはもともと「愛する」という動詞の言葉が存在しなかったのですが、キリスト教文化が入ってきた頃に使われるようになったことはよく知られていることです。「恋する」という言葉は「源氏物語」で使われていますが「愛する」とは意味がまったく違います。
では聖書が語る「愛する」という言葉は一言でいうと何なのでしょうか。
それは、神様の愛は他人に何かを求めることではなく、一方的に犠牲を払う愛、これなのです。
人はだれかを「愛する」時、基本的には「~だから愛する」という条件付きの愛、もしくは対価を求める愛です。 (例:助けてくれるから。背が高いから。ご飯を作ってくれるから。お金をくれるから。)しかし神様の愛は喜んで、条件なしに、ご自身を他者(人)に与える愛ということをこの記事を読んで下さる方には知ってほしいのです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
聖書(ヨハネ3:16)
「神は愛です」
聖書 (第一ヨハネ4:8)
この言葉は文字通り「神=愛」、すなわち神様は愛そのものなのです。だから神様は人を愛されるのです。しかも人に代価を求めず、一方的に愛を注がれるのです。
私の罪の身代わりとして十字架に架かられた神の御子イエス・キリストが蘇られた
この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。
聖書(伝道者の書7:20)
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
聖書(ローマ3:23)
どの世界でも罪を犯せば、その代価を支払わなければなりません。刑務所に入ったり、人を傷つけたりした場合は、賠償金を支払わなければいけません。もちろん、この記事を読むほとんどの方はだれかを傷つけたり、殺したり、刑務所に入るような罪を犯したりはしていないと思います。
しかし、全ての人は罪を犯しているというのが聖書が教える人間像です。びっくりされるかもしれませんが、それは事実です。一つ一つの犯罪を言っているのではなく、「本来、人がその生涯を通して果たすべき目標を見失っている状態」や「造られた目的」から離れた人生を送っているという意味なのです。
では、人の人生の目標、造られた目的とは一体何でしょうか。聖書は、人が神様の方を向いて、神様とともにいる、神様を賛美することだと教えます。
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。
聖書 (イザヤ43:7)
そこから離れた人生は言ってみれば「的外れな人生」、「無意味な人生」を歩んでいるということを言っているのです。本来の目的を満たしていない為、人は別の目的を見出そうとしたり、満足できない何かを満たそうと、一つ一つの犯罪や、人生で感じる虚しさ、いいようもない悲しみが生まれてきます。
神様は「私たちを愛してくださって」いるので、「的外れな人生」=「罪の人生・神を知らない人生」を送っている私たちを何とか元の状態に戻したいと願っておられます。しかしその解決の為の代償はあまりにも大きく、担いきれないものです。どのようにして罪の賠償を支払えばよいのでしょうか。
その答えは御子イエス・キリストのみにあります。神様は御子イエス・キリストを地上に送られました。送られた目的は、私たちが本来支払うべきだった賠償の身代わりとして、イエス・キリストを十字架に付けられ、血を流す(命をかける)というものでした。
神様は罪の状態にいる私たちを憐れみ、その御子イエス・キリストの十字架の死をもって、罪の代価の身代わりを成し遂げて下さったのです。
永遠の命を得る
「私の罪の身代わりとして十字架に架かられた神の御子イエス・キリストが蘇られた」
このことを信じるならば、私たちは永遠の命を得ることができます。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
聖書(ヨハネ3:15)
永遠のいのちについては、他の記事で詳しく説明します。
まとめ
クリスチャンが信じているのは「天地の創造主である神」が、「私たちを愛しておられ」、「神の御子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架に付けられた」ことを信じる人々は「永遠の命を得る」ということです。- 天地の創造主である神
- 神が人を愛しておられる
- 人の罪の身代わりとしてイエスキリストは十字架に架かられた
- そのことを信じるものは、永遠の命を得る
参考:「ウェストミンスター信仰基準」(新教出版社)
「聖書辞典」(新教出版社)
「聖書ハンドブック」(聖書図書刊行会)
「バプテスマクラス」(箕面福音教会)