はじめに
マネジメントの父と言われている経営学者ピーター・ドラッカーをご存知でしょうか?
ビジネスパーソン、会社員で、彼の本を読んだことのある人は少なくないと思います。
ドラッカーは、経営者に求められる資質は「真摯さ」だと言いました。
”They may forgive a person for a great deal: incompetence, ignorance, insecurity, or bad manners. But they will not forgive a lack of integrity in that person.(無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。だが、真摯さの欠如は許さない)”『(ピーター・F・ドラッカー『現代の経営』〈上〉)
ドラッカーは原文では「integrity」と言っており、この言葉は、真摯の他に、高潔や誠実とも訳せます。
きっとビジネスの世界も中に入れば入るほど闇の部分はあるにせよ、人々が、「高潔、誠実、真摯」な経営者やリーダーを求めているのは事実です。
陰でしている不正が公になれば、リーダーはその地位を失う可能性が大いにあります。
日本の経営者としておそらく一番有名な、松下電器産業(現・パナソニック)の創業者・松下幸之助さんも、ビジネスパーソンには「素直な心」が大切だと説いています。
素直な心というのも、その人の能力よりも人格を評価する言葉です。
つまり、社会では、高い基準で誠実でいることを当たり前のように求められるということです。
では、クリスチャンはどうでしょうか?
ドキッとしますね。
きっと、社会の人々、教会の外の人々は、クリスチャンに多大なる期待を持っている…はずです。
何に対する期待か?「高潔、誠実、真摯」と言った人格です。
もし、「え?クリスチャン?どういう人たち?」などと期待がなければ、私たちが社会でいかに影響力を失っているかを表しているのかもしれません。
先ほど読んでいただいた聖書の中のイスラエルの民も、「高潔、誠実、真摯」でいることを期待されていました。
誰に期待されていたのか?
神様です。
約束の地カナンに行く前の40年間で、神様がイスラエルの民に徹底的にしたことは、律法とその実践による「教育」でした。
荒野で、ミニストリーをしたわけではありません。
準備なのです。
「私の選んだイスラエルよ!いいかい?カナンの地は今まで住んでいたエジプトとは違うよ。今いる荒野とも違う。」
「信仰の戦いが求められる偶像の多い地域だ」
「あなたたちは、そこで神の国の文化をもたらすんだよ。」
「世の光、地の塩として「高潔、誠実、真摯」に正しく生きなさい!」
その申命記の中で、今日私たちが神様からのメッセージとして受け取りたいのは次の箇所です。
ゆうき牧師のYouTubeチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画を見ることができます。少しでも興味のある方は、ぜひ、YouTubeのチャンネル登録をよろしくお願いします。
大小異なる重り石とは?
あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。
聖書(申命記25:13)
これは何の話や?と思うかもしれませんが、これは当時の商い(ビジネス)の場面です。
当時、市場で食べ物などを買うとき、天秤を使っていました。
重さで値段を決めていたので、天秤に乗せてバランスをとるのです。
一方に石を載せ、もう一方に品物を載せたのです。
大小異なる重り石とは、相手を騙すための道具です。
重さが違う石を使い分けると、同じ魚一尾の値段が違ってきます。
日本ではありませんが、ある有名な水産市場で、このような不正が実際に行われたそうです。
たらいをすり替える不正です。
1キログラム当たり、1,500円のヒラメをゴムのたらいに入れて、はかりに載せます。
3キロになりました。たらいの重さが1キロなので、ヒラメの重さは2キロ、3000円だと言いますが、実際のたらいの重さは2キロです。
1500円をだまし取ったことになります。
また、はかりをわざと200~300グラムぐらいずらしておくこともありました。
また、重さを量るとき、指や網でこっそりとはかりの後ろ側を押す人もいました。
あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。
聖書(申命記25:14)
この枡も同じです。
米とか、液体に使われた容器のことです。
なぜ、そのような使い分けをするのか?
人を欺いて、利益を多く取るためです。
これくらいはいいだろう
現代はもっと巧妙に不正を行う人たちもいます。
法人カードを私的な用途のために使用することや、他の人の論文の内容を盗んで、自分のもののよう発表する人。
見えない部分には安い資材を使用する建設会社。
税金の一部を、湯水のように使う政治家。
しかし、今日の箇所は、ビジネスパーソンだけに言われているのではありません。
私たちの誰もが、「これくらいはいいだろう」とちょっとした不正を行ってしまう時があるかもしれません。
あるいは、限りなく黒に近いグレーの嘘をつく時があるかもしれません。
その、ほとんどが自分の利益を失いたくない場合です。
正直に話してしまうと、自分が損する可能性があるからです。
この申命記の話は、会社員だけに言われていることではなく、
私たちすべての人間の問題。
「高潔、誠実、真摯」とも言える「正しく生きなさい」という神様のみことばです。
私たちは、ちょっとした嘘やごまかしをしたときに、心がズキッとする瞬間があるのではないでしょうか?
なぜ、ズキッとするのか?
私たち人間には、神様が造られた良心があるからです。
しかし、心がズキッとしたとき、その良心に従って、正しくあり続ける人はどれだけいるでしょうか?
私たちの多くは、心の中でもう1人の自分の声を聞くのではないでしょうか?
「みんなやってる」「ちょっとくらいいいだろう」「誰も見てない」
この頭文字をとってMcDと呼びます。
McD、私が勝手に作りました。
そう、McD=マクドナルド
「Mみんなやってる」「Cちょっとくらいいいだろう」「D誰も見てない」
良心に反するこの心の声に従う人は、世界にあるマクドナルドの数よりももっと、多いに違いありません。
イスラエルにも不正が蔓延していた
当時も、中東ではこのような不正は横行していましたが、イスラエルの中にもこのような不正は蔓延していたと聖書は記しています。
あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きのはかりで欺こう。
聖書(アモス8:5)
10 まだ、悪者の家には、不正の財宝と、のろわれた枡目不足の枡があるではないか。
聖書(ミカ6:10-11)
11 不正なはかりと、欺きの重り石の袋を使っている者を罪なしとすることがわたしにできようか。
本来、神様の正しさを世に証して行くために選ばれたイスラエルは、堕落してしまいました。
しかし、神様は、イスラエルがこのように堕落するずっと前に、この申命記を通して語っているのです。
「正しく生きなさい」
しかも、神様が私たちに求めている正しさの基準は、「完全」」です。
あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。
聖書(申命記25:15)
正しく生きることは可能なのか?
しかし、現実を知っている人はこのようにいうでしょう。
私たちが、「完全に正しく」生きることは果たして可能なのでしょうか?
イエス様も言われました。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
聖書(マタイ5:48)
姦淫するな!してない!イエス様「心の中で情欲を抱いたらアウト」「チーン」
人殺しするな!するわけない!イエス様「他の人に腹を立てたらアウト」「チーン」
これは、すべての人が、神様の「完全に正しい」基準の下では、アウトだということです。
では、諦めるしかないのか?でも、聖書は正しくありなさいと言っているし。
ここまで行くと煮詰まります。
クリスチャンのジレンマです。
ようやくここまできました。
みなさん、聖書全体、律法全体で神様が何を言っているのかを見れば、煮詰まることはありません。
主をほめたたえます!
発想の転換「なぜ、アブラハムは正しいと言われたのか?」
私たちは、【発想の転換】が必要なのです。
なぜ、煮詰まるのか?いつも同じ壁にぶつかるのか?
それは、私たちが自分で「正しくなろう」とするからです。
はっきりいうと、私たちは神ではないし、神になれないのです。当たり前です!
正しくなることは、私たちの努力とか、私たちが扱える問題ではないのです。
それは、神様の領域です。
アブラハムは正しい人でしょうか?
YesアンドNoです。
彼の生活を見ると、たくさん失敗します。正しくありません。
しかし、聖書にこう書いてます。
彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
聖書(創世記15:6)
義とは、正しいという意味です。
申命記の「正しい」と同じヘブル語が、このアブラハムが義と認められたの「義」という言葉に使われています。
発想の転換が必要です。
なぜ、正しいはかりが必要か?この問いかけが必要です。
神様は目的を持って、律法を与えられました。
一度、立ち止まって、考えて見ましょう。
神様は何を求めておられるのか?
私たちは、申命記をずっと見てきました。
共通点がありました。
何ですか?
神を愛し、隣人を愛すること。それが神様の御心だということです。
なぜ、屋上にフェンスを作りなさい?と申命記に書いてあるのか?
神様は、建築に口を挟みたいのか?
いいえ、安全管理を徹底しなさい、あなたの隣人が間違って死なないように。隣人を大事にしなさいということです。
律法学者やパリサイ人が、安息日に人をいやすイエス様を非難しました。
彼らは熱心さのゆえに、守ること自体を目的としてしまったのです。
しかし、イエス様の答えは、神を愛し、隣人を愛するという目的があるからこそ「安息日」があるのだということでした。
私たちが正しくなるマニュアルとして律法があるのでしょうか?
いや、むしろ、律法は私たちの不正を明らかにします。
私たちが忘れがちで、また神様がしつこくしつこく具体的なケーススタディを通して律法で教えておられることは、
隣人を虐げるな!隣人を大事にせよ!隣人を愛せよ!それが信仰によって生きる私が正しいとした義人の姿だ!と。
なぜ、正しいはかりが必要か?
隣人を愛するためです。そして、それは神を愛することでもあります。神様は私たちと同じように、私たちの隣人も愛しておられるからです。
隣の人を見てください。神様はこの人をとっても愛しています。
愛することと正しいことの関係性
愛することと正しいことは、繋がりがあるのでしょうか?あります!
8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
聖書(ローマ13:8-10)
9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
正しくなろうとして正しくなるのではなく、
神の愛によって心が満たされ、聖霊様の力によって、神を愛し、神が愛された隣人を愛する人は、律法を全うするのです。
もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。
聖書(ヤコブ2:8)
「りっぱです」の言語を見ると、「正しい」「基準に達する」という意味があります。
英語の訳は、you are doing right.
つまり、
もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは正しいのです。
聖書(ヤコブ2:8)
という意味です。
まとめ
今日、主が語られる言葉に耳を傾けましょう。
真摯に、誠実に、高潔に生きる理由は、人々の信頼を得て、ビジネスで成功することではありません。
また、誤解を恐れずに言えば、真摯に、誠実に、高潔に生きる理由は、自分がきよくなって行くことでもありません。
きよくするのは、神様です。
神様が求めている「正しく生きるのとは具体的にどうすることか?」
それは、神を愛し、隣人を愛することです。
私たちの心が、ズキっと反応する時。
祈リましょう。主よ助けてください。聖霊様、力を与えてください。
神を愛し、隣人を愛することを選びとっていけまするように。
最後に、15-16節を共に読んで、お祈りしましょう。
15 あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。
聖書(申命記25:15-16)
16 すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、【主】は忌みきらわれる。