はじめに
ヨシュア記は、かなりざっくり2つに分けられます。
1-12章は、カナンの地の征服の話。
13章からは、その征服後のカナンの地の割当の話です。
12章はちょうど、一つ目の大きな区切りの最後の章で、ヨシュアとイスラエルが征服した地域と彼らが殺した王たちのまとめです。
この12章も1-6節と7-24節の2つに大きく分けられます。
1~6節は、カナンの地に入る直前にモーセによって征服されたヨルダン川東の国境と、殺されたヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグに関して、
7~24節は、ヨシュアによって征服されたヨルダン川の西側の国境と、殺された31人の王たちです。
このカナン征服における戦いを一言で言うならば、勝利につぐ勝利、奇跡の連続です。
しかし、私たちがヨシュアだったら、いやイスラエルの一民だったらどうかと、想像してみましょう。
普通、どのような思いが来るでしょうか?
恐れです。
「いやいや、私は信仰があるから恐れませんよ!ヨシュアとカレブだってそうだったじゃない。」
もちろん、信仰は恐れません。しかし、ヨシュアだって人間です。
そんなヨシュアに対し、現に主は「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない」と言いました。
なぜでしょうか?実際に恐れていたからです。
カナンの地に入る前に、偉大な指導者モーセが死にます。
「モーセ抜きで俺らは大丈夫だろうか?」と不安になったかもしれません。
次、水かさが増して到底渡れないヨルダン川がありました。
奇跡によって、ヨルダン川を渡った先は、あらびっくり。
南北に200キロメートル、東西に79キロメートルほど日本の四国ほどの小さな地域を31人もの王たちが治めている、いわば大戦国時代のような場所、それがカナンの地だったのです。
しかも、 1つの都市や町が一つの国のようになっている都市国家体制で、それぞれの都市国家は、強い軍事力によって外部勢力をことごとく抑えていました。
そこに、新参者とも言えるイスラエルが入って行くのです。
それを知りながらも民がヨシュアの指示に従うことができたのは、なぜでしょうか?
それは、彼らが信頼したのは、リーダーであるヨシュアだけではなく、ヨシュアの上におられる万軍の神だったからです。
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主のしもべとはどういう意味か?
【主】のしもべモーセとイスラエル人とは彼らを打った。【主】のしもべモーセは、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、これらを所有地として与えた。
聖書(ヨシュア記12:6)
今日は、この主のしもべというフレーズに注目したいと思います。
「しもべ」と訳された エヴェドは、「働く、仕える、礼拝する」という意味の アヴァドから派生した言葉です。
しもべというと「奴隷」を想像しますが、 そのほかにも、「王の職務を任されたすべての者たち」をも指す言葉です。
特に、このしもべの前に「主の」とつく今回のようなケースは、特別な人々に対してだけ用いられる主の栄光に満ちた言葉です。
アブラハムやダビデも、わたしのしもべと呼ばれています。
アブラハムとダビデの人生を見てわかるように、
主のしもべは、「真実な主を信頼し、主のご計画がなされるように、自分の人生を主に明け渡す人」のことです。
その人の人生で、スポットライトはその人自身に当てられているのではなく、主ご自身が輝いているのです。
神のしもべとしての自覚
12:1-6に、モーセの時代の勝利が再び書かれている理由は、指導者モーセを強調するためではなく、「モーセの時から変わらない」主の御手を示すためです。
バシャンの王オグが領土としていた地はとても広かった。
中にはレファイムと呼ばれる巨人もいたが、モーセは勝った。
それは、モーセという強力な指導者がいたからか?
いや違う、「主のしもべモーセを通して」主が先頭に立って戦われたので、勝利が与えられたのだ。
ヨシュアの時もそうです。
どんなに手強かった相手でも、イスラエルは勝利しました。
それは、モーセの時と同じように、「主のしもべヨシュアを通して」主が戦われたからです。
モーセとヨシュアは、そのことを自覚している指導者でした。
だからこそ、ヨシュアもまた、しもべと呼ばれています。
これらのことの後、【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
聖書(ヨシュア24:29)
神のしもべとしての自覚。
それは、イスラエルが戦うのではなく、主の栄光のために、主ご自身が先頭にたち戦われる聖戦だと言うことの自覚です。
神がイスラエルに与えたいのは、約束の地での安息です。
しかし、安息を手に入れるためには、戦いがあるのです。
私たちの人生の戦い
私たちの人生にも、戦いがあります。
最近、時間に追われずに、主の前に静まる時間を持つことって案外難しいと感じています。
僕にとって、忙しい一日が始まる前の早朝の祈りは 、ゆっくり静かに主と交われる時間です。
なので、最近は、早く起きるために戦っています。
しかし、朝早く起きるためには、夜早く寝ることが大事だと気付きました。
なので、本当の戦いは、夜だと思います。
寝る前のスマホをやめる。
ご飯は三時間前に食べる。
お風呂も早めに入る。
そして、夜の9:30には、夫婦で聖書を読み、祈る。
一番の戦いは、夜の教会の祈り会の後です。
終わって家に帰ると10時を過ぎているのです!
しかも、謎の興奮状態にあることが多く、異様に甘いものが食べたくなります。
コーラが飲みたい。アイスが食べたい!
そう思い、近くのコンビニに行くと、高確率で教会の人に出会います。
しかも、お互いほぼ100%スイーツコーナーで会います。
僕は悟りました。
「ああ、みんな戦っているのだ」と。。
また、私たちの戦いは、罪との戦いでもあります。
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
聖書(ヘブル12:4)
そして、信仰生活そのものが戦いとも例えられています。
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、 多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
聖書(1テモテ6:12)
パウロは言いました、
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
聖書(2テモテ4:7 )
真の安息を得るためには、避けては通れない戦いがあるということです。
誰がその戦いを戦っているのか?
しかし、今日考えたい問題は、誰がその戦いを戦っているのか?ということです。
言い換えれば、それは、誰の戦いか?ということです。
誰の戦いですか?
それは主の戦いでなくてはいけません。
思い違いをしてはいけません。サタンも罪も神抜きで私たちが勝てる相手ではないのです。
ヨシュア記1章で神様からの声を聞いたヨシュアは、イスラエルをカナンの地に導く指導者としての召しを受け取ります。
しかし、彼が本当の意味でこの戦いが主の戦いであることを悟ったのは、5章です。
13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
聖書(ヨシュア5:13-15)
14 すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、 ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか」
この言葉から、ヨシュアは、アブラハムやモーセと同じように神に出会ったということがわかります。
すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
聖書(ヨシュア記5:15)
ヨシュアは、この戦いはイスラエル人とカナン人の戦いだと思っていました。
しかし、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」この言葉でヨシュアは悟るのです。
「ああ、この戦いは、「主の戦い」であり、主ご自身が、将軍としてこの戦いの先頭に立っておられるんだ!」
これが主のしもべとして必ず、わきまえなければいけないことです。
私たちの人生の戦いは、私たちだけで戦っているのではないということです。
主が戦っておられるのです。
しかも、主が先頭に立って進まれるのです。
だからこそ、主は何度もヨシュアに言います。
「強くあれ。 雄々しくあれ。」
なぜ?
主が前を進まれるからです。
これが主のしもべです。
モーセも同じところを通りました。
燃える柴の中におられる主に出会ったモーセも同じ言葉を聞きました。
神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
聖書(出エジプト3:5 )
聖なる地とは、神の所有、神の御手の中にあるということを示しています。
主は、罪に汚れたカナンの地でヨシュアに現れ、そこを聖なる所とした。
つまり、すでにその地は主の支配の下にあるということです。
聖戦とは、主の戦いであり、主の支配が及ぶことです。
なぜ、聖戦が必要なのか?
なぜ、主は、私たちが理解に苦しむような、聖絶を命じられたのか?
それは、聖書にはっきりと書いています。
神の支配を認めない、かたくなな心に対する神の裁きであると。
申命記9:5
あなたが彼らの地を所有することのできるのは、 あなたが正しいからではなく、 またあなたの心がまっすぐだからでもない。 それは、 これらの国々が悪いために、 あなたの神、 【主】が、 あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。 また、 【主】があなたの先祖、 アブラハム、 イサク、 ヤコブになさった誓いを果たすためである。
今日の箇所の2節から5節を見ると、支配という言葉が何度も出てきます。
2 エモリ人の王シホン。彼はヘシュボンに住み、アルノン川の縁にあるアロエル、川の中部とギルアデの半分、アモン人の国境のヤボク川までを支配していた。
聖書(ヨシュア記12:2-5)
3 またアラバを、東のキネレテ湖までと、東のアラバの海、すなわち塩の海、ベテ・ハエシモテの道まで、南はピスガの傾斜地のふもとまで支配していた。
4 また、レファイムの生き残りのひとりであったバシャンの王オグの領土。彼は、アシュタロテとエデレイに住み、
5 ヘルモン山、サルカ、ゲシュル人とマアカ人の国境に至るバシャンの全土、およびギルアデの半分、ヘシュボンの王シホンの国境までを支配していた。
カナンの地の王たちは、自分たちがその領土を支配していると勘違いしていたのです。
そのことをヨシュア11:20では、かたくなな心と言っています。
彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、【主】から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、【主】がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。
聖書(ヨシュア11:20)
神は、この地に神の支配を回復するために「主のしもべ」イスラエルを用いられました。
偶像にまみれたカナンの地において世の光、地の塩として主の栄光を光り輝かせるために、
そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」
聖書(イザヤ49:3)
神がイスラエルを選ばれたように、主はここにいる私たち一人一人も選ばれました。
神であられるイエス様ご自身が、ご自身の血によって私たちを買い取られたのです。
まとめ
今日、今一度考えてみましょう。
私たちの人生は誰のものでしょうか?
イエス様が命をかけて買い戻された私たちの人生は誰のものなのか?
私たちはカナン人のように、自分が自分の人生を支配してはいけません。
自分が王となって、知らない間に神に敵対している生活を送ってはいけません。
私たちは、いつも目を覚まして、罪やサタンと戦わなければいけません。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
聖書(エペソ6:12)
しかし、どんな攻撃や誘惑があっても、恐れる必要はありません。
主が先頭に立って戦われるからです。
もし、私たちの生活が共同体に根ざし、神を愛し、隣人を愛する方向に向かって確かに進んでいるなら、どんな問題があっても恐る必要はありません。
主が先頭に立って主が戦われるからです。
主のしもべとは何か?
主のしもべとは、「先頭に立って戦われる真実な主を信頼し、神の栄光のために前進するもの」です。
そのような、主のしもべして、私たち一人一人を、またこの福音館を通して、神の栄光が表されるようにお祈りいたいします。