はじめに
今日の詩篇は、ダビデが書いたものです。
ダビデと聞くと、クリスチャンでなくても知っている人は多いと思います。
小さいうちに、サムエルに油を注がれたイスラエルの王。
小さな石ころによって巨人ゴリアテを倒した信仰者。
百戦錬磨の戦士。琴を奏でる音楽家。そして、美しい詩を書く詩人でもあります。
しかし、そんなダビデの人生はいつも、うまく行っていたわけではありませんでした。
不倫や殺人を犯し、父親としても立派だったわけではありません。
その度に、彼が神の前に悔い改める姿に、私たちは心を打たれます。
しかし、彼の人生の中で、忘れてはいけないのは、常に敵に囲まれ、逃げた荒野での10年間を代表する絶望の日々です。
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ダビデの絶望と死の恐怖
今日の箇所の詩篇では、彼の絶望と死の恐怖がほとばしっています。
いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。 私の心には、 一日中、 悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、 勝ちおごるのでしょう。
聖書(詩篇13:2)
ダビデの絶望の原因は何でしょうか?
ある人は、ダビデが大きな病気を患っていたと言います。
敵が勝ちおごると言っているので、誰かに追われているのか?
サウル王?息子アブシャロム?
少なくても、自分を殺そうとする人に命を狙われ追われ続けたのが、ダビデの人生でした。
しかし、ダビデにとって一番、苦しかったこと。
それは、神がともにおられないように感じるという苦しみです。
【主】よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
聖書(詩篇13:1)
ダビデの深い絶望は、「いつまでですか?」という問いかけによく表されています。
1~2節でこの苦しみの問いかけは4回もくり返されています。
「あと、どのくらい耐えればいいのだろうか。」
「神様は、なぜ答えてくださらないのだろうか。」
「神様は力がないのでもなく、愛しておられないわけでもないのに、なぜ、守ってくださらないのだろうか。」
「なぜ?なぜ?なぜ?」
私たちも失望したり、神が何もしてくださらず、ともにいてくださらないように感じたりして、不安になることがあります。
神がもう介入してくださらないように思えて希望が見えず、暗やみに囲まれたような思いに陥ることがあります。
姉の病気
こないだ、お墓に行ってきたとき、墓石に掘られた私の姉の名前の横の召天日を見て、もう召されてから8年にもなるんだなあと思いました。(※メッセージ当時)
姉は高校を卒業してから9年間、重いうつ病を患っていました。
実家で姉と住んでいた時、一日中、何も話せないとほどの状態や、ずっと部屋で寝ていることもよくありました。
きっと、ほとんどの人は、姉の状態が、そこまでひどいとはわからなかったはずです。
なぜなら、人と会うときは調子がいいときだけだからです。
それ以外は、ずっと続く出口のないトンネルの中。
よく姉は、一日中、ダビデのように「神様、いつまでですか?」と神様に祈っているんだけど…と話してくれました。
なんどもなんども癒しを祈りました。でも状況が変わらない神様に「何で癒してくださらないのですか?」と叫び、
そして、「いっそのこと殺してください!」壁を蹴りながら、このように叫んでいました。
それが9年続きました。
私は最初、「もっとこうしたらいい」とか、姉の心が弱すぎるとか、そのようにさばいていました。
しかし、その態度が姉を苦しめていたことに気づいたのはだいぶ後のことでした。
私の姉は、信仰が足りなかったのでしょうか?
神様を「きちんと」信じていなかったのでしょうか?
絶対にそんなことはありませんでした。
ダビデもそうです。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
と本当に思っていたのでしょうか?
血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。
聖書(詩篇9:12)
彼は頭では、神様は自分を忘れるはずがなく、
御顔を隠してはおられないことを知っていました。
感情の吐露
1-2節の叫びは、感情の吐露です。
どこにもぶつけることのできない、怒りや悲しみ、葛藤と絶望という感情を神様にぶつけているのです。
ここから、私たちが学べることは、どこにもぶつけることのできない、怒りや悲しみ、葛藤と絶望という感情を神様の前に注ぎ出しても良いということです。
では、神様はなぜ、あえて問題をいつまでも解決されない場合があるのでしょうか?
3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
聖書(ローマ5:3-4)
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
それは、問題の解決によってではなく、問題や弱さを抱えたまま生きる中で、私たちに何かを教え、信仰を練り上げてくださるからです。
祈りの変化
3-4節でダビデの祈りに変化が起きます。
私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、【主】よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。
聖書(詩篇13:3)
あらゆる感情を吐露したダビデは、そこで終わりませんでした。
彼は、神に祈ったのです。
3節でダビデは、神を「私の神、主よ」(アドナイ エローハイ)と呼びます。
「主」と訳された アドナイは、真実なイスラエルの契約の神を意味し、「神」と訳されたエロヒームは、創造主やカある神を意味します。
そして、その神に「私の」をつけて呼びかけることで、ダビデは神と自分は深い親密な関係にあることを事実として祈ります。
祈りが聞かれない2種類の人
①本当に祈っているのに聞かれない人と、
②実は、祈っていない人。
このメッセージを準備しながら、思いました。
実は、本当に祈っている人の方が、少ないのではないか?
人に相談したり、人には「祈って」とお願いするけど、それは素晴らしい姿勢です!
しかし、自分自身でそのことを、神様に切に祈っているでしょうか?
とにかく祈ったダビデ
ダビデは、真実な神への祈りが他の何よりも力があることを知っていました。
彼は、事実、祈ったのです。
たとえ、神様が御顔を隠しておられるように思っても、「どうか、御目を注いでください!」
たとえ、祈りを聞いてくださらないように思っても、「どうか、答えてください!」
たとえ、心身ともに最悪な状態で死と隣り合わせでも、「私の目を輝かせてください!」「私が死の眠りにつかないようにしてください!」
なぜなら、私は、あなたが「私の神、主」「創造主であり、真実な契約の主だと知っているからです!」
また私の敵が、「おれは彼に勝った」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。
聖書(詩篇13:4)
「私の敵」とは誰でしょうか?
ダビデを10年間、殺すために執拗に追い詰めたサウルでしょうか?
ダビデから王位を奪おうとした息子のアブシャロムでしょうか?
それとも、ダビデから信仰を奪い、霊的にも絶望させ、殺そうとするサタンの攻撃でしょうか?
はたまた、3節の「死」そのものを人のように表してるのでしょうか?
私たちの人生を見るならば、その全てが当てはまるかもしれません。
私たちの社会には、私たちをいじめたり、悪口を言ったり、仲間外れにする意地悪な人がいます。
また、サタンは、いつも「お前なんか不要だ」「お前はどうせダメなやつだ」「お前なんか死んだほうが良い」「神はお前を見捨てた」と心を攻撃します。
そして、最終的に「死」という壁が決して勝つことのできない壁として立っているように見えます。
ダビデの確信「しかし!」
しかし、5節でトーンが変わります。
神に思いを向けたダビデの心に、確かに神様の光が生まれているのがわかります。
私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。
聖書(詩篇13:5)
ヘブル語では、この5節の最初に「しかし」という言葉があります。
英語の聖書にも、そのように訳されています。
この「しかし」が重要です。
「しかし!私はあなたの恵みに拠り頼みました。」
今の現状は最悪です。死が目の前にあります。
霊的にも飢え渇いています。
とても、状況が良くなるとは思えません。
しかし!
「しかし!私はあなたの恵みに拠り頼みました。」
なぜ、過去形なのですか?
3-4節で神様を信じて祈ったからです!
そして祈りは、確信に満ちた宣言に変わるのです。
「私の心はあなたの救いを喜びます」
私は【主】に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。
聖書(詩篇13:6)
神への歌とは賛美です。
神様は素晴らしい!なぜ?
「主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」
「豊かにあしらわれたゆえ」
→”私は主に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。” (新改訳2017)
なぜ、ダビデの祈りは変わったのか?
神様はダビデに良いことをしましたか?
質問を変えると、ダビデの状況は祈りの間に変わりましたか?
全く変わっていません。
敵は自分の命を狙っているし、もしかすると癒されていないうつ病を持っていたかもしれない。
いつこの状況が良くなるか、良いアイデアが浮かんだわけでもない。
誰か、強力な助けでが現れたわけでもない。
しかし、しかし彼は完全に変わったのです。
彼の内側が変わったのです。
祈りのうちに彼は、自分の深い絶望を、神に対する真実な決断に変えました。
なぜ?どうやって?何が起こったのでしょうか?
何が起こったのかは論理的には説明できません。
しかし、これは聖書のいろんな箇所に共通することですが、
神の前に出たとき、確かに変わるものがあります。
それは、私たちの信仰です。
私たちの状況は目まぐるしく変わります。
しかし、神は変わりません。
私たちの信仰もアップダウンします。
しかし、神の私たちに対する真実・愛は変わりません。
そのお方の前にそのままの姿で出るならば、神様は必ず私たちに変わらない神を信じる信仰を増し加えてくださいます。
姉の病気2
最終的に姉が天に召される前、実は、病院で二回も、「鬱はもう治っていますよ」と医者に言われていたらしいです。
しかし、それでも、生活の中でうつの症状が出ることがありました。
姉が苦しみを通して悟ったことがありました。
姉自身はこのように言っていました。
苦しみを通して自分は神様につながったし、苦しみがなかったら、神様から離れていたと思う。
母に、姉はうつになってなかったら、女社長になってバリバリいろんなことをやりたかったと話していました。
しかし、私が、そして私の母が口を揃えていうこと、確信していることがあります。
それは、絶望的な試練の中での絶え間ない祈りの中で、姉の信仰はどんどん輝いて言ったということです。
身体や心は弱くなっても、賛美集会でステージに立って賛美をしました。
うつ病の人にとって、人前に出てスポットライトを浴びるはとても勇気がいります。
しかし、姉は、「神様に賛美の賜物をもらった!」と喜んで、教会のある方にボイストレーニングをしてもらいながら、教会に通い、喜んで神を賛美していました。
亡くなる前には、子供のような綺麗で純粋な信仰者として、彼女の中に輝くイエス様が大きくなって行くのがわかりました。
私の人生で一番尊敬する信仰者の1人は、姉です。
あえて起こる神の試練
神様が、あえて試練を与える時があります。
そして、「いつまでですか?」と苦しみをあえて長引かせる場合があります。
しかし、私たちを愛しておられる神様には最善の理由があります。
なぜなら、苦しみの中で、神に祈るとき、たとえ環境が変わらなかったとしても、「私自身」が変わるからです。
私自身の内側が練り上げられるのです。
神は答えてないようでも、神は確かに働かれています。
それは、苦しみの中でこそ、私たちの内なる人が新しくされるという神の御業であります。
16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
聖書(2コリント4:16-18)
17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
まとめ
詩篇には、多くの嘆きや絶望が書かれていますが、詩篇はヘブル語でテヒリーム「賛美」という意味です。
なぜなら、どんな絶望も全ては、私たちを愛する真実な神への賛美に変わるからです。
真実な神に思いを向けるなら、必ず、私たちの目は輝きます。
神の栄光が反射するからです。
今、私たちはどのような状況にいるでしょうか?
絶望の状況にいたとしても、平穏であっても、先が見えなくても、飢え渇いていても、飢え渇きすらない状況でも、
神に祈りましょう。
3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
聖書(ローマ5:3-5)
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。