はじめに
今日の箇所のナアマンは異邦人でしたが、15節で次のように告白することになります。
「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」
イスラエルの神こそ、ただ一人、唯一の神であることを世界中に証すること。
これが神が選んだイスラエルに与えられた使命です。
私たちは、イエス様を通してこのイスラエルの神を信じる家族に入れられましたが、
イエス様が来るずっと前から、この福音が外国人にも宣べ伝えられていたことが、今日のナアマンの箇所を通してわかります。
1節をご一緒にお読みしましょう。
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ナアマンは悟ることができるか?
アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
聖書(2列王記5:1)
実は、この一節にすでにこの物語のポイントが書かれています。
【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。
つまり、「彼の成功はイスラエルの神のおかげだった」ということ。
「それをナアマンは悟ることができるか?」という問いを、この一節で聖書は私たちに与えています。
ナアマンがそれを悟るためには、大きな壁がありました。
彼は、王にまで尊敬されていた強大国アラムの将軍。成功者だったからです。
しかし、このナアマンを神様に近づけた出来事がありました。
ツァラアトです。
ツァラアトとは何か?
聖書に出て来るツァラアトは、今日のらい病、ハンセン病とは違います。
レビ記13によると衣類や壁にもできるからです。
ツァラアトのポイントは、宗教的な汚れ、神からの断絶です。
ツァラアトに犯されているものは、幕屋から隔離されなければなりませんでした。
1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
聖書(民数記 5:1-3)
2 「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。
3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」
ナアマンがツァラアトに冒されることによって、異邦人の彼が神様の救いの契約から離れている暗示を読み取ることができます。
しかし、その神から離れている異邦人のナアマンがまるで神様に引き寄せられて行くように、物語は進んで行きます。
2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
聖書(2列王記5:2-3)
3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
サマリヤにいる預言者とはエリヤの後を継いだエリシャのことです。
ナアマンは、誰も治しすことのできないツァラアトを治すために、藁をも掴む思いで、敵国イスラエルに行くことを決めます。
しかも、当時のアラムは強大国であり、イスラエルは弱小国でした。
ナアマンがしたこと
ナアマンは、次のことをしました。
①敵国イスラエルの女奴隷のいうことを聞いた。4節
②贈り物をした。600人分の年間賃金。今でいう、30億くらいです。5節
これらは、皆、天下のアラムの大将軍のプライドを捨てなければできないことです。
そして、
③馬から降りて入り口に立った。最大限の敬意。9節 4:15
預言者エリシャの対応
ところが
どっこい、肝心の預言者エリシャの対応は、ナアマンの想像とは違っていました。
エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
聖書(2列王記5:10)
まず、エリシャは家から出てきませんでした。
天下のアラム王国の大将軍様が、入り口に立ってまで、「へりくだって」いるのに、エリシャは使いをやって「ことば」だけを伝えたのです。
門前払いのように思える行動に、ナアマンのプライドはズタズタです。
「この野郎!無礼な!」
しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
聖書(2列王記5:11)
しかも、そのエリシャの伝言の内容もめちゃくちゃに思えました。
ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。
ヨルダン川は、汚い川でした。
今回のツアでもヨルダン川に行きましたが、とても入りたい川ではありませんでした。
おそらく、ナアマンも川に浸かるなら、もっと綺麗な川がアラムにもあるじゃないか!と怒ったのでしょう。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
聖書(2列王記5:12)
しかも、7回ヨルダン川に身を浸すなど、まともな頭では理解できるような指示ではありません。
なぜ、エリシャはこのような対応をしたのか?
なぜ、エリシャはこのような対応をしたのでしょうか?
それは、預言者の威信を守るためだとか、ツァラアトの人との接触を避けたからではありません。
銀と金と引き換えにツァラアトをいやそうとやって来たナアマンに、この世の富や誉れよりも、それを与えてくださった主権者なる神にひざまずくように導くためでした。
彼が、敵国の女奴隷のアドバイスに従い、膨大な金銀を携え、入口で立っていたのは、プライドを捨てなくてはできない行為でした。
しかし、それでは不十分ということです。
ヨルダン川で7度身を洗うようにとの「みことば」は、ナアマンが神に従うかどうかを試みるものでした。
ローマの百人隊長のケース
ローマの百人隊長がイエス様に褒められた話をご存知でしょうか?
5 イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
聖書(マタイ8:5-10)
6 言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
ただ、神のみことばに従えるか?
それだけです。
しかし、たったそれだけのことに従えるかが試されるのです。
あの謙遜なナアマンが怒りました。
自分は他の人よりも幾分謙遜だと思っておられる方。
みことばと格闘するときには、どんなに謙遜と思われる人でも、怒りがでるでしょう。
本当の自我がでる。
なぜ?自分の思い通りに行かないから。
神の助け
しかし、なんと神様は、激おこぷんぷん丸のナアマンが神様の御言葉に従えるように助け舟を出します。
神様はすごいですね。
ナアマンが怒ることくらい織り込み済みです。
むしろ、「待ってました」と言ったところでしょうか。
そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
聖書(2列王記5:13)
要するに、簡単にできることなんだから、したらどうですか?ということです。
もう、あまりにも直球です。でも、正論ですね。そうです。みことばには素直に、「はい」とできるんです。
するか、しないかのボールは常に私たちにあるのです。
彼は結局、言われた通りにします。
そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
聖書(2列王記5:14)
ナアマンは結局、どうなったの?
彼はどうなったのですか?きよくなりました。
ツァラアトが癒され、異邦人の彼がきよくなったことです。
これは、ただの癒しとは意味が違います。
なぜなら、ツァラアトの癒しはメシアにしかできないからです!
イエス様ご自身が、このように言われました。
また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
聖書(ルカ 4:27 )
つまり、異邦人ナアマンの救いは、今から2000年前にメシアなるイエスさまを通して救いが異邦人に広がることの雛形です。
そして、イエス様がメシアとして来られた目的、それは、ナアマンの告白そのものです。
全ての人が、「イスラエルのほか、 世界のどこにも神はおられないことを知る」ことです。
30 すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。
聖書(マタイ 15:30-31)
31 それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。
まとめ
今日、神様が私たちに語っておられることは何でしょうか?
神様は、私たちを救いに導くために、試練や苦しみを許されることがあります。
ナアマンのツァラアトのように。
しかし、その問題の解決がゴールではありません。
試練を通して、私たちのプライドが砕かれ、みことばに従い、この聖書の神が生きておられること。
イスラエルのほかに、このような素晴らしい神はいないということを体験すること。
イエス様、あなたこそ、我らの王、「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方」です!と、全ての口がイスラエルの神をあがめるようになることです。
私たち異邦人に、この救いがもたらされたことを、主に感謝しましょう。
そして、全ての口が、「イスラエルのほか、 世界のどこにも神はおられないことを知る」ように祈り続けたいと思います。
そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。 」
聖書(2列王記5:15)