はじめに
「憐み深い」って、どういう意味でしょうか?
憐む=相手の気持ちや身の上を察して気の毒に思う。(辞書)
つまり、相手に不幸なことがあった時に、同情することですね。
この憐みですが、一歩間違えると相手にとって迷惑になることがあるようです。
2016年の熊本地震では、阪神・淡路大震災や東日本大震災のケースを教訓に、インターネット上で「被災地いらなかった物リスト」が拡散されました。
中に何があったと思いますか?
ヒントは小学校の先生が生徒に作らせそうなもの。『千羽鶴や寄せ書き』
千羽鶴を送る方は、何かしたいと思って善意でしているつもりが、被災者にとっては捨てることもできず、ただの迷惑にだったということですね。
つまり、辞書の定義の通り、「相手の気持ちや身の上を察して気の毒に思った」としても、実はただの善意の押し付けだったなんてこともあります。
聖書のあわれみと、私たちの考えるあわれみが違う可能性があるのです。
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聖書の「あわれみ深い者は幸い」とは?
では、聖書のいう「あわれみ」とはどういう意味なのでしょうか?
よく読んでみましょう。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
聖書(マタイ5:7)
ここでは、「あわれみ深い者」とあります。
「者」→つまり、誰かをあわれむという行為にフォーカスが当たっているのではなく、憐み深い状態のことを言います。
「深い」→憐みにひたっている。人格そのもの。内側から溢れる。
もし、私たちが誰かを「あわれむ」という行為だけを考えてしまうなら、
本当は心から同情していないのに、ボランティアに行ったり、誰かを助けている自分に酔ってしまうこともあります。
そのような表面的なあわれみを受け取った相手はすぐに気づくものです。
あわれみとは、単なる行為ではなく、経験を伴う人格なのです。
聖書は、「あわれみ深い人」になりなさい。そういう人は幸いだからと言っているのです。
では、あわれみ深い人になるにはどうすれば良いのでしょうか?
神のあわれみを経験することです。
え?
他人をあわれんだ人が、あわれみを受けるのではないの?
違います。
あわれみを受ける人が、あわれむことができ、そういう人こそ、あわれみを受けるのです。
つまり、あわれみ深い人とは、自分こそ「あわれみ」が必要な存在であることを体験を通して知っている人です。
どういう意味か?
自分こそ「あわれみ」が必要な存在であるとは、自分がとるに足りない小さな存在であることを知っている人です。
具体的にどういう人かというと、マタイの福音書の5:3-6の全てに当てはまる人。
心が貧しい人
悲しむ人
柔和(踏みつけられて我慢する人)
義に飢え渇いている人
つまり、人生の苦難を通して、自分がいかに貧しく、ちっぽけで、弱く、情けない存在であるかを認め、神の憐みを経験している人。
聖書は、一貫してこのような存在であることこそが、幸いであると言っています。
なぜ?
神様が、その人を憐んでくださるからです。
心の貧しい者は幸いです。 なぜ?天の御国はその人たちのものだからです。
悲しむ者は幸いです。 なぜ? その人たちは神に慰められるからです。
柔和な者は幸いです。 なぜ? その人たちは神ご自身と約束の地を受け継ぐからです。
義に飢え渇く者は幸いです。 なぜ?その人たちは神の義に満たされるからです。
あわれみ深い者は幸いです。 なぜ?その人たちは神のあわれみを受けるからです。
私たちは、できれば苦難は通りたくありません。
貧乏で困りたくない。仕事場でもトラブルは起きて欲しくない。もちろん失業なんて経験したくない。
両親に離婚して欲しくないし、家族が死ぬのは想像もしたくない。
失敗よりも成功。
欠乏よりも繁栄。
争いよりも平和。
もちろん、これらは神の祝福です。
しかし、人生の苦難を通ることを神様が許されることがあります。
なぜ?
私たちが貧しくなり、悲しみを経験し、柔和にさせられ、正義に飢え渇くなら、心から隣人を同情し、上から目線ではなく、困っている人と同じ目線で、あわれむことができるようになるからです。
なので、一生懸命、あわれみ深い人になろうとする必要はありません。
余裕や思い上がりは、上から目線のあわれみを生みます。
神のあわれみは、人生の苦難を通して、練られた品性です。
3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
聖書(ローマ5:3-4)
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
今までの歴史の中で最も、貧しくなり、悲しみを経験し、踏みつけられてもじっと我慢し、正義に飢え渇いた人はだれでしょう?
イエス・キリストです。
イザヤ書にはイエス様の人生が預言されています。
3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
聖書(イザヤ53:3-4)
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
イエス様はこの預言のように歩まれました。
この姿はまさにマタイ5章そのものです。
イエス様は、全人類の罪を背負い、神から見放され、こう言われました。
「わたしは渇く」
それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
聖書(ヨハネ19:28)
なぜ、神であられるイエス様は、このような苦しみや病を経験されたのでしょうか?
それは、私たちに同情するためです。
私たちが苦しい時「神よ!あんたはこんな苦しみわからないだろう!」と叫んでも、「私はわかるよ。どんなに苦しいか。私も同じ苦しみを通ったんだよ」と憐まれるために。
苦しみ、病気、孤独、絶望、罪悪感、喪失を全て経験されたからこそ、私たちを本当に心から憐むことができる。
イエズス会司祭の柳田敏洋さんは、十字架での死を遂げるイエスを「相手になりきる神」の愛の現われとして説明しました。
イエスが十字架上で自ら渇く者となったのは、人間と同じ目に遭い、同じ体験をすることで、相手の苦しみの中に入って、その苦しみを担おうとする神の愛の体現であると。
この「相手の苦しみの中に入って、その苦しみを担おうとする神の愛の体現」を行った人として、「マザーテレサ」が挙げられます。
マザーテレサはインドのスラム街での奉仕に始まり、1965年以降、必要ならば世界中のどこへでも出かけました。
マザーと直接に出会う人が、自分こそマザーから世界中で一番愛されていると感じ、「神はあなたを愛している」という福音を確信するほどであったようです。
しかし、彼女は後に驚くべきことを告白しています。
実は、マザー・テレサは、スラム街での活動を始めて間もない頃から、イエスの存在や神の愛が全く感じられないという「霊的な闇」を体験していたという事実です。
しかも、その霊的な闇は約50年という活動の全期間に及んでいたそうです。
ある記事を抜粋します。
1946年9月10日にダージリンへ向かう列車の中での最初の啓示からの数カ月間は、キリストからの招きを直接に体験できる霊的な蜜月(みつげつハネムーン)ともいえる期間であった。
しかし、ロレット修道会を離れて単独活動に入り修道会創立の動きが始まる 1949年頃からは、一転してイエスの現存は影を潜め、マザーの心は闇の中に完全に見捨てられた状態になった。
教皇庁の認可を受けた修道会が発展する一方で、マザーの内的苦しみと混乱は解決されないまま、 初めの 10 年を過ごした。
その間はイエスが自分を見捨てるはずがない、いつか再び恵みの時が訪れるだろうという盲目的な信仰だけで過ごしていた。
しかし、1959年春には、それまで必死で抜け出ることだけを願っていた暗闇に自ら留まることが、イエスの苦しみを和 らげることになることを理解し、暗夜を使命として受け入れる覚悟をするようになる。
更に、1961年から指導にあたったノイナー師は、イエスを感じることだけがイエスの現存の証拠となるのではなく、むしろ、彼女が虚無感を抱え神に渇望していることこそが、隠れた イエスの現存の確かな証しであると悟らせた。
彼女がイエスの不在に苦しむことは、キリス トの贖いの業の霊的な部分に参加する彼女の使命であるというのだ。
つまり、その霊的な苦しみを、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ 15:34)と叫ばれたイエスの「遺棄の状態」に同化することへの招きと受け止め、同時に、 霊的・内面的に神から見捨てられたと感じて苦しむ人々の心の渇きに共感し、分かち合うために捧げる犠牲とするのである。
「マザーテレサのようになりたい」と思っても、「霊的な闇」を通ることなくしてはは難しいでしょう。
神に見捨てられたイエス様の道を通り、貧しさ、悲しみ、柔和、義への渇きで、自分自身がキリストとともに十字架で死んだという経験を通ったからこそ、
彼女の中の福音がますます輝いて行ったからです。
神の愛が、空っぽのマザーテレサを通して、流れて行った。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
聖書(ヨハネ3:30)
つまり、イエス様が、弟子たちに教えられた天国の生き方。
それは、自分が低くされて行けば行くほど、神様を証しすることができる。
神のあわれみを受ければ受けるほど、他の人を憐む神の愛が与えれるということ。
でも、みなさん、ちょっと、重くなりませんか?
俺には無理だ。
私はマザーテレサじゃない。
神様は、私たち全てにマザーテレサのように、何もかも捨てて、インドのスラム街で奉仕することを望んでおられるのでしょうか?
そんなことはありません。
神様は私たち一人一人に「召し」を与えておられます。
「召し」とは、神様が割り振った役割です。
あなたにしかできないこと。
あなたにやってもらいたいと神様が願うことがあるのです。
もし、あなたが仕事する普通のサラリーマンなら?
仕事する普通のサラリーマンの苦しみを経験しているのです!
サラリーマンにも苦しみがあるでしょう。
給料や将来の不安、競争社会、同僚との関係、日々のノルマ、虚しさ。
バイトや派遣社員には、特有の苦しみがあるでしょう。
個人事業主や社長にも、主婦には主婦の苦しみ。
私はあなたになれません。
あなたも他の誰かになれないのです。
いや、神が命じない限り、なる必要はないのです。
お金持ちがマザーテレサのように全財産を寄付してインドのスラムに行ったら、どうでしょう?
人は喜ぶかもしれません。
神様が命じたら、してください。
でも、神様があなたをお金持ちにさせたなら、お金持ちだから経験する苦しみを経験できるのです。
それは、あなたにしかできない、あわれみを生み出すのです。
日本人の苦しみは日本人が経験できる。逆にインドのスラムに生きている人は、私たちの生活に同情できるでしょうか?
あなただけが通った人生がある。神様があなたに通した、経験させた苦しみ、痛み、むなしさ。
今何を経験していますか?
あなただから寄り添える人、心から同情し、あわれむことができる人がいるのです。
まとめ
みなさん、「あわれみ深い人」になろうとすることを一旦置きましょう。
今日、今まで通った苦しみを思い返しましょう。
今、通っている苦しみを受け入れましょう。
その経験を通して、体験した、「心の貧しさ」「悲しみ」「柔和」「義への渇き」
それが、他人への深いあわれみに変わるのです。
「誰かになろうとする」ことをやめましょう。
「等身大のあなたのまま」で同情できる人が隣にいることに気づいてください。
そのためには、等身大で神のあわれみを受けなくてはいけません。
自分こそが、「あわれみ」が必要な存在であることを認め、神のあわれみを体験していきましょう。