はじめに
迫害とリバイバルには相関関係があります。
イギリスの牧師、ジョン・ストットは、
「今、中国で起こっている出来事は、キリスト教2000年の歴史で最も驚くべきことかもしれない」と言いました。
今までのリバイバルの歴史はキリスト教が許可された時。
しかし、無神論国家、共産主義で起こっているリバイバル。
宣教学者「中国からキリスト教がなくなるだろう」→事実は逆になった。
中国は、迫害の中で、リバイバルが起きています。歴史上、最大のリバイバルは、イエス様の復活の後、聖霊に満たされた弟子たちによってエルサレムから始まったリバイバルです。
最初は、ユダヤ教指導者からの迫害。
その後は、ローマ帝国による迫害。
ライオンと戦わされ殺されたり、火あぶりにされたローマ帝国による大迫害は、過去最大の殉教者を生みました。
しかし、どうでしょう?
その後、ローマ帝国はキリスト教国家になります。
豊臣秀吉や徳川家康の時代。
日本でもリバイバルが起きていました。
しかし、激しい迫害の中、信仰を守り死んで行った人々も多くいました。
みなさんは、日本はローマ帝国時代を除けば、歴史上、最も殉教者が多い国だと知っていますか?
殉教者が多いということは、それだけ信じたものが多かったということです。
なぜ、日本にリバイバルが起きないのか?
その答えはもしかすると、日本に迫害がないからと言えるかもしれません。
今日は、山上の説教の8つの祝福の最後。
「迫害」についてです。
3節も語っているので、この「迫害」がいかに大切であるかが分かります。
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迫害とは何か?
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
聖書(マタイ5:10)
義のため=神さまが喜ぶことのため。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
聖書(マタイ5:11)
わたしのため=キリストのため
つまり迫害とは、
① 神さまが喜ぶことをする時に
② 必然的に
③身近で起こる
苦難のこと。
① 神さまが喜ぶことをする時に
私たちが、神様が喜ぶことをする時、迫害がおきます。
私たちの中に、イエスキリストが現れるからです。
その時、世の中の支配者は「ヤバイ」と思って、攻撃し始めます。
その時、世の中の人たちは、自分の罪がキリストの光によって照らされて「反応し始めます」
例えば、不倫をしている人に、「それは罪だよ」と指摘すれば、嫌われるかもしれません。
職場で誰かの不正を暴けば、いじめられたり、恨まれるかもしれません。
良いことをしたのに飛ばされた半沢直樹になります。
実際、清の康熙帝(こうきてい)は、最初はとても親クリスチャンだった。
しかし、歳を取ってくると、反キリスト教になった。その後、禁教令。
なぜ、態度が変わったのか?→宣教師が康熙帝に一人の妻だけ娶ってもいいと言ったから?
罪を指摘すれば、反感を書います。
指摘された人は嫌だからです。
サタンも悔い改められたら、道連れが減るので、必死に抵抗します。
イエス様は、罪人を愛されましたが、罪を憎みました。
イエス様は、罪をバッチバチ指摘しています。
結果、十字架にかかりました。
注意すべきは、自分が何か悪い事をして、人からいやなことを言われたりいじめられたりするのは、ここには当てはまらないということです。
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。
聖書(1ペテロ4:15)
② 必然的に
迫害は本来、自然に起こるものです。
必然的に起こるのです。
キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
聖書(2テモテ3:12)
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。
聖書(ヨハネ15:20)
もし、今、イエス様を信じる信仰によって、迫害を受けているなら、それは幸いなことです。
しかし、もし、私たちの生活で迫害が起こらないなら、何かがおかしいのです。
厳しい言い方ですが、本気で「キリストのために」敬虔に生きようと願っていないなら、迫害は起こりません。
迫害がないからラッキー!ではないのです。
迫害がないのは、クリスチャンとして黄色信号です。
筋トレをすれば筋肉痛になります。
筋肉を大きくしたいのに、軽いトレーニングをして、筋肉痛が起きなくてラッキー!とはならないでしょう。
矛盾しているのです。
私たちも、神様が喜ぶことをしたい!と願っていながら、迫害だけは勘弁してください。
というなら、矛盾しているのです。
神様は今日、私たちに語られています。
「リバイバルを望むのか?それなら、心から、私に献身して欲しい」と。
③ 身近で起こる。
いやいや、戦国時代や共産圏でないんだから、迫害なんて起こらないでしょ?
確かに、迫害と聞くと、なんだか身近ではないですよね?
でも、聖書を読んでいくと、迫害は私たちにとって身近な場面で起こると書いています。
例えば、
A. 普段の人間関係で
異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
聖書(1ペテロ2:12)
B. 職場の上司との関係で
18 しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。
聖書(1ペテロ 2:18-19)
19 もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
C. 夫との関係で
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。
聖書(1ペテロ3:1)
ここで、質問です。
みなさんは、現在「迫害されていますか?」
「義のために、イエス様のために」という条件付きです。
なぜ、迫害が起こらないのか?
① 神さまが喜ぶことをする時に⇄神より人を喜ばせようとしている(動機)
② 必然的に⇄信仰を隠している(存在)
③身近で起こる⇄実生活で信仰的に生きていない(行動)
① 神さまが喜ぶことをする時に⇄神より人を喜ばせようとしている(動機)
もしかして、私たちは神ではなく人にこびているかもしれません。人に嫌われたくない。
今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。
聖書(ガラテヤ1:10)
肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。
聖書(ガラテヤ6:12)
神より人を喜ばせようとしている人は、嫌われません。
人気者です。
でも、それでいいのでしょうか?
そんな人生でいいのでしょうか?
はっきり言って、そんな人、たくさんいます。
でも、死ぬ時、後悔しませんか?
私は人には嫌われなかった。
でも、神のために100%捧げて、神を喜ばせていただろうか?
神より人を喜ばせようとしているなら、迫害は起こりません。
② 必然的に⇄信仰を隠している(存在)
もしかして、私たちは信仰を隠しているかもしれません。
14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
聖書(マタイ5:14-16)
15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。
聖書(マタイ10:33)
頑張る必要はありません。
光は存在するだけで光っているので、隠れなければ、イエス様が自動的に証されます。
でも、人前でクリスチャンであることを隠しているなら、迫害は起こりません。
③身近で起こる⇄実生活で信仰的に生きていない(行動)
もしかして、私たちの実生活の行動は、世の中の価値観に同化しているのかもしれません。
異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、
聖書(1ペテロ4:4)
世の中は、異物に反応します。
しかし、私たちが、お酒をカブガブ飲んで酔っ払い、何かに中毒になったり、誰かを陰口を言ったり、競争社会にどっぷり使ったり、お金がすべてであるような行動をしているならば、全然目立ちません。
社会ではそれが普通だからです。
世の価値観で行動しているなら、迫害は起こりません。
僕自身、恥ずかしながら、今まで迫害という迫害がほとんどありませんでした。
最初は、信仰を隠していました。
どこかで、突き抜ける瞬間があるのです。
隠れクリスチャンから、
人畜無害のクリスチャンから、
他に人に伝える人へと。
なぜ、迫害されるのが良いのか?
イエス様は、喜べと言っています。
喜べ!とは、めっちゃいいことだよ!ということです。
宝くじに当たったら、喜びますよね?
そんな感じです。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
聖書(マタイ5:12)
なぜ?
報い(賃金)があるからです。
救いは全員に与えられますが、報いは違います。
預言者もやがてくる報いのために迫害を通りぬきました。
エジプトの王パロの敵意に直面したモーセ,アハブ王に脅迫されたエリヤ,ライオンの穴に投げ込まれたダニエル等。
聖霊に見たされた弟子たちも、報いを見て喜びました。
使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。
聖書(使徒5:41)
ここで、私たちの叫びが頂点に達します。
「自分には無理だ」
まず、迫害されるほど、ガチではない。
しかしも、迫害されて喜ぶなんて、正気ではない。
ものすごく高い要求に思えます。
牧師や宣教師のような人はできるかもしれないけど、私には無理だ。
「私には無理だ」
そうです。
きっと、この言葉がスタートであり、答えなのです。
人間には無理です。
弟子たちのように、預言者のように、聖霊の満たしがないと無理です。
心の貧しいもの、悲しむもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、人をあわれむもの、心の清いもの、平和をつくる者。
イエス様は一貫して同じことを言われてきました。
共通点がありました。
それは、自分では達成できない。
「神の力なくしては」
神様が、心の貧しいものを救われ、
神様が、悲しむものを慰められ、
神様が、私たちを柔和にさせ、
神様が、義を与えられ、
神様が、人をあわれむ愛を与え、
神様が、心をきよくされ、
神様が、平和をつくられる。
であるならば、神様が、迫害を起こし、迫害に勝利する力を与えられるということです。
まとめ
日本のリバイバルのために、一歩踏み出しましょう。
① 神さまが喜ぶことをする時に⇄神より人を喜ばせようとしている(動機)
② 必然的に⇄信仰を隠している(存在)
③身近で起こる⇄実生活で信仰的に生きていない(行動)
A. 普段の人間関係で
B. 職場の上司との関係で
C. 夫との関係で
「俺にはできない」とは言わないでください。
それは自意識過剰です。
どこかでできると思っているか、したくないのか、神よりも自分を思っているのです。
人ではなく神が喜ばれることをする
信仰を隠さない
神の価値観で行動する
その結果、勝手に迫害が起こり、信仰によって迫害を乗り越えられるからです。
その結果、社会で、神の素晴らしさが証され、サタンが敗北します。
その結果、リバイバルが起こるのです。