はじめに
「なにかを長期間成し遂げるためには考えや行動を一貫させる必要がある」
「僕は天才ではありません。 なぜかというと自分が、 どうしてヒットを打てるかを説明できるからです」
「小学生の頃、20mくらい先を歩いてた女の子の後頭部に柿を命中させてプ口に行けると確信した」
これらは、誰の言葉でしょうか?
野球のイチロー選手です。
さすが、イチロー選手は違うなあと思いますね。
でも、ここで考えて見たいのです。
さっきの言葉を違う人が言ったとしたら、イチロー選手ほどに説得力が生まれるのか?
例えば、東京オリンピック組織委員会の会長を辞任した森喜朗(よしろう)元首相が
「小学生の頃、20mくらい先を歩いてた女の子の後頭部に柿を命中させるやつは、必ずプロに行ける」
と言ったら、大炎上するでしょう。
彼は女性蔑視発言をしてバッシングされているからです。
そもそも、この発言は現在のイチロー選手をみんな尊敬しているから炎上しないのであって、そもそも女の子の後頭部に柿を投げつけるような人はやばいやつです。
つまり、私たちは、言葉の内容よりも言葉を語る人を重んじる傾向があるのです。
論文を書くときに大切なのは、誰の言葉を引用するかです。
会社の意思決定では、新入社員の提案よりも、実績のある社員の提案の方が採用されやすいのです。
私たちは、誰が言っているかに影響されているのです。
では、考えてみましょう。
あなたがよく聞いている声はなんですか?
・新聞、テレビなどのマスコミの声?
・インターネットに書かれている声?
・本?YouTubeの声?
・尊敬する人の声?親の声?友達の声?
・流行や、多数の声?
・自分の声にしか従わないという人もいるでしょう。
ここに、「聖書や神様」が出てこないならば、あなたは「自分がクリスチャンだ」と言っていても、あなたの人生の土台は、神以外の声でできています。
少なくても、影響されています。
それの何が危ないかというと、それらは皆、相対的だということです。
相対的とは、基準が状況や変わることです。
それこそ、誰が言ったかによってフィルターがかかり、同じ内容でも意味合いが変わってきます。
今日のメッセージを聞くならば、私たちが一体誰の声を第一に聞くべきかを知ることができます。
また、なぜ聞くのか、どうやって聞くのかについても聖書からしっかりと受け取ります。
砂の上に建てた人生ではなく、岩の上にたった安定した人生を積み上げていきましょう。
このチャンネルでは、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当てた動画や、人生に適用できる3分間の聖書のメッセージ動画をアップしています。聖書に少しでも興味のある方、人生を変えたい方は、チャンネル登録をよろしくお願いします。
私たちは誰の声を第一に聞くべきか
今日は、三つのポイントで見ていきます。
①何を、聞くのか?→イエス様のことば(マタイ 7:28-29, 7:24, 5:21-22)
イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
聖書(マタイ7:28)
家を建てる者のたとえを最後に、イエスさまが「これらのことば」、つまり山上の説教を「語り終えられると」、「群衆はその教えに驚」きます。
なぜ、群衆は驚いたのでしょうか?
イエス様の教えの内容が素晴らしかったからでしょうか?
違います。
イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
聖書(マタイ7:29)
イエス様が、権威を持って語られたからです。
つまり、神としての権威によって、教えられたからです。
群衆が驚いたのは、語った内容ではなく、語った人が、自分のことばとして、つまり、神として語ったからなのです。
当時のイスラエルの群衆は、パリサイ人や律法学者たちが、聖書を教えていたのをずっと聞いていました。
律法学者は、律法自体に権威をつけて、聖書を解釈します。
しかし、その欠点は、律法の解釈がズレると、聖書全体を正しく読むことができなくなります。
実際に、このズレが当時のイスラエルで生じていました。
しかし、イエス様は、自分の権威によって、律法も聖書もそのまま解き明かされます。
ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
聖書(マタイ7:24)
24節には、「わたしの」これらのことばとあり、実は「わたしの」が強調されています。
他にも、実はイエス様は、「わたしのことば」を強調しています。
21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
聖書(マタイ5:21-22)
22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
律法ではこう言っていると聞いていると思うけど、神である私が本当に言いたいことは「これだよ」と。
同じフレーズが、山上の説教だけで10回ほど出てきます。
20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
聖書(マタイ5:20,28,32,34,39,44)
28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。
34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
聖書(6:25,29)
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
なので、まず、私たちは、世界にある他のあらゆる声よりも、イエス様の言葉である聖書を聞く必要があります。
冒頭お話ししたように、生きていれば、さまざまな声を聞いて相対的に振り回されてしまいます。
全てが間違っているわけではありませんが、一番聞くべきは、神のことばである聖書です。
また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
聖書(2テモテ3:15)
聖書を通して神のことばを聞くならば、知恵が与えられ、救いを受け取ります。
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
聖書(2テモテ3:16)
また、状況やその人に応じて、教えられます。
間違いがあれば戒められ、矯正されます。
信仰者として、訓練されます。
結果、整えられたものになるのです。
神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
聖書(2テモテ3:17)
なので、基本的に、聖書を読んでいない人は、神の働きをするにはふさわしくないという意味です。
だからこそ、教会では、まず第一に聖書のみことばをお互いが読み続けるように熱心に勧め合うことが大切です。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
聖書(2テモテ4:2-4)
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
世の中はますます聖書とは違う相対的なズレた価値観で溢れていきます。
なので、意識して、聖書を第一に読み続けることを意識しましょう。
なので、ガーデンチャーチは、リビングライフを使って毎日、聖書を読む習慣を持つことをお勧めしています。
冊子を買わなくても、ホームページから、その日の箇所を読むことができるようになっています。
礼拝の後に聖書のメッセージを分かち合うのも、聖書を共同体の第一の土台にするためです。
②なぜ、聞くのか?→イエス様に従うため(マタイ7:24)
神の言葉を聞くことが最終的な目的ではありません。
神の言葉を聞くのは、従うためです。
イエス様の山上の説教の90%は適用が語られています。
イエス様は自分の哲学を伝えたかったわけでも、聖書の解釈をひけらかしたかったわけでもないのです。
神の言葉を聞いて、その通りに実行することが一番大切だと繰り返し言いました。
ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
聖書(マタイ7:24)
どうやって、行うのか?
それは、信仰によって、聖霊の力によって可能になります。
詳しくは、これまでのメッセージをご覧ください。
③どうやって、聞くことができるのか?→祈り求める(詩篇119:18, 119:125, エペソ1:17, ヨハネ5:39)
聖書を読む時に、律法学者のように解釈がズレる可能性もあります。
なので、イエス様に、聖書を理解できるように祈り求める必要があります。
私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。
聖書(詩篇119:18)
私はあなたのしもべです。私に悟らせてください。そうすれば 私はあなたのさとしを知るでしょう。
聖書(詩篇119:125)
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
聖書(エペソ1:17)
この聖書の言葉をそのまま祈りにしてもいいでしょう。
「イエス様、目を開き、悟らせてください」
この助けは、信じたものの内側におられる聖霊様の働きとも言い換えることができますね。
そうすれば、聖書のどこの箇所であっても、イエス・キリストの確かな声を聞くことができるでしょう。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
聖書(ヨハネ5:39)
僕自身、神様よりも人の声を優先して聞いてしまう弱さがありました。
今もありますが、ガーデンチャーチを開拓する前が、一番ピークだったと思います。
「人の声に答えようとする」根底には、「人に認められたい」「嫌われたくない」「批判されたくない」「怒らせたくない」などの満たされない部分があったからだと、今なら思えます。
もちろん、神様は人を通して、語られることもたくさんありますし、人のアドバイスが無意味と言っているわけではありません。
人の期待や声に応えよう、応えようと頑張ろうとすればするほど、面白いことがおきました。
結果として人の期待に応えられない自分に直面し落ち込み、期待してくれる人も不満を持つということです。
私はうつのような状態になり、自分の人生は一体何のためにあるのかもわからなくなりました。
人の期待に応えられないので、「教会に自分は必要ないんじゃないか。人の邪魔をしているだけなんじゃないか」
その時、私はイエス様の声を聞いたのです。
「ゆうき、あなたは何がしたいのか?」
その時の率直な感想は、「何も思いつかない」でした。
自分は何がしたいのかがわからなくなっていたのです。
しかし、イエス様はずっと、語られるのです。
「ゆうき、あなたは何がしたいのか?」
そこから、埋まっていたビジョンが心に溢れてきました。
「イエス様の福音をただシンプルに人に伝えたい」
「働く人々に、新しい方法で、聖書を伝えたい」
「札幌駅の近くでカフェのような教会をしたい」
こうして、神の言葉に従って進んだときに、多くの人に助けられ、ガーデンチャーチが形になっていったのです。
あのときに、牧師をやめていたら、もしかすると5人の洗礼者と今一緒に礼拝していなかったかもしれませんね。
ここで、重要なのは、「あなたは何がしたいのか?」という質問の内容ではありません。
「神様が」語ったということが重要なのです。
「あなたは何がしたいのか?」という質問は、世の中の自己啓発セミナーや、本でも盛んに言われます。
しかし、私が本で読んだフレーズでも、自分で考えたことでもなく、イエス様の言葉として受け取ったことに意味があるのです。
イエス様の声を聞いたときに、人生は変わります。
私はうつっぽい状態から、本当に人生が変わりました。
逆を言えば、イエス様以外の声で人生を埋め尽くしているならば、人生はやがて詰みます。
砂の上にたてた家のように、台風が吹いたら、倒れます。
皆さんはどうでしょうか?
イエス様の声を聞いているでしょうか?
それとも、私のように、人の声や期待が神様の声よりも大きくなってはいないでしょうか?
・新聞、テレビなどのマスコミの声?
・インターネットに書かれている声?
・本?YouTubeの声?
・尊敬する人の声?親の声?友達の声?
・流行や、多数の声?
・自分の声?
これらのものに、自分の人生の船の舵を任せていないでしょうか?
まとめ
今日は、三つのポイントで見ていきます。
①何を、聞くのか?
→イエス様のことば(マタイ 7:28-29, 7:24, 5:21-22)
②なぜ、聞くのか?
→イエス様に従うため(マタイ7:24)
③どうやって聞くことができるのか?
→祈り求める(詩篇119:18, 119:125, エペソ1:17, ヨハネ5:39)
今日、人生のバランスを正しましょう。
イエス様の声を求めましょう。
もう一度、土台をしっかり固めましょう。
イエス様の権威ある声を最優先に聞き、従う人生。
そのような人生は幸いです。