誰かの助けになりたい。困っている人を見捨てられず、つい手助けや支援をしてしまう。
これだけを聞けば、問題が無いように思えますが、世の中の困っている人を助けそれがあたかも自分の使命と思い込んでいたり、周囲から感謝という見返りを期待したりする人は、メサイアコンプレックスである可能性があります。
「メサイア(救世主)コンプレックス」とは、人助けが自分の満足を満たす目的となっている人を指します。
聖書は、人を救うのは人ではなく、神であると言っています。
聖書に出てくるモーセという人物は、若い頃、「自分がイスラエルの民を救うんだ」と勘違いをしていました。
こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。
聖書(出エジプト記2:11)
ヘブル人は、イスラエル人やユダヤ人と同じ意味です。
彼は、正義感からエジプト人を殺して、イスラエル人を助けます。
彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。
聖書(出エジプト記2:12)
殺人はいけないことですが、モーセのしたことはイスラエルにとって、救世主のような行為ではないでしょうか?
しかし、神様は、モーセの中に、「自分が」イスラエルの民を救いだすんだという「傲慢さ」があったことを見抜かれていました。
なぜなら、神様は、このタイミングでイスラエルの民の出エジプトのためにモーセを用いることはしなかったからです。
この後、エジプトのファラオから命を狙われ、彼は40年間荒野で過ごすことになります。
逃亡したその後の40年間の生活の中で彼の傲慢は砕かれたのでした。
その後、なんと80歳でモーセは用いられることになるのです。
それが有名な出エジプトです。
彼が40年間で学んだこと。それは、「人を救うのは自分ではなく、神である」ということです。
80歳でモーセには、王子の時に比べて、立場も、資金力も、名声も、体力も、自信もありませんでした。
自分の弱さを徹底的に叩き込まれ、彼は「イスラエルを救う」というビジョンも失いかけていたことでしょう。
「私の人生はもう終わりだ」
その時に、彼はシナイ山の荒野で、神の声を聞き、出エジプトのために用いられるのです。
聖書を見れば、80歳のモーセは、神様の目には、このようにうつっていたことがわかります。
モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。
聖書(民数記12:3)
私たちはどうでしょうか?
「誰かが困っていると手助けせずにはいられない!」
「自分がやらないで誰がやるのか?」
正義感によって、誰かの役に立とうと思えば思うほど、お節介になったり、空回り、燃え尽きてしまうこともあります。
根本的に、人を救うこと、人の必要を満たすことができるのは神であることを知りましょう。
このことを踏まえるなら、晩年のモーセのように、皆から感謝されなくても、手助けし続けることができるようになります。