最近では、辛い状態でも会社に尽くしている人を社畜なんて言うようにもなってきています。
この社畜という状態がから「サラリーマンは会社に労働を強いられていて奴隷みたいだ」というイメージがついてしまっているようです。
東京大学の青柳名誉教授は、
「古代ローマにおける奴隷は、非常に貴重な働き手であったため生かさず殺さず、子どもも作って欲しいという待遇だった」
「今で言えば言葉は悪いけど、ちょうどサラリーマンみたいな存在と考えてもいいんじゃないですか」
と言っています。
現代でも会社に全てを捧げ、奴隷同然に働く会社員のことを「社畜」といいますが、21世紀になっても2000年前の奴隷と大して変わらない生活をしているとすれば皮肉な話です。
聖書は、私たちはどんなものに対しても奴隷ではないと言っています。
その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」
聖書(出エジプト記5:1)
エジプトに戻ったモーセは、イスラエルの長老たちと民に会った後、ついにファラオの前に立ちます。
モーセとアロンは、神がモーセに、行ってファラオに伝えよと何度も繰り返し命じた言葉を伝えます。
この言葉から、私たちに対する2つのポイントを見ていきましょう。
①私たちは神のものである
「わたしの民を去らせ」のヘブル語本文は、強い命令の「去らせ」で始まります。
この去らせのヘブル語は「シャラーフ」と言って「解放する」という意味です。
つまり、世の権威に向かって神の民の自由と解放を宣言しているのです。
イスラエルの民は、ファラオにとって奴隷であり、彼の所有物でしたが、実際はイスラエルは神の民です。
同じように、私たちもこの世においては、神以外のものに束縛されているように感じることがあります。
しかし、私たちが持つべきアイデンティティは、私たちは神の所有でる民であり、他のいかなるものからも自由であるということです。
②私たちは神を礼拝する自由がある
神の命令は「荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ」と続きます。
「祭りを行う」とは、聖書に書いてある神を礼拝する祭りのことです。
つまり、私たちの自由とは、神を礼拝するという特権なのです。
日本国憲法20条にも、信教の自由があるように、神を礼拝する自由は、人間にとって大切な権利です。
しかし、これをファラオは許しません。
ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」
聖書(出エジプト記5:2)
なぜなら、ファラオは自分を神としているからです。
私たちが、この世にあって、自分が神のものであると宣言し、神を礼拝しようとするとそれを阻止する力が働くことを感じるかも知れません。
それは、私たちの世界には、人間を何かの奴隷になるように誘惑しているサタンがいるからです。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
聖書(エペソ書6:12)
しかし、大丈夫です。
神様がイスラエルの民を10の奇跡をはじめとする力わざで解放したように、私たちのいかなる奴隷の束縛からも解放されます。