アドラー心理学では、誰かを「褒める」ことは目上の者が目下の者に言う言葉なので、よくないと言われています。
でも、誰もが他の誰かに「認めて欲しい」という承認欲求があることは否定できません。
その欲求は、どう処理すれば良いのでしょうか?
聖書は、正しい基準で褒めてくれる神様から褒められなさいと言っています。
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
聖書(マタイ 25:21)
誰かに褒めてもらうことに囚われるならば、待っているのは依存です。
他人の完全ではない判断基準に自分のアイデンティティを設定することになるのです。
神様は完全な善悪の判断基準を持っています。
しかし、神様に認めてもらうために頑張ると、宗教的になったり、燃え尽きたりします。
神様に認めてもらうために頑張る必要はないからです。
神様は、すでにそのままの私たちに価値があることを認めておられます。
もしかすると、私たちは常に、何ができるか、できないかで判断されてきたかもしれません。
テストで良い点をとったら、両親は喜ぶ。でも、失敗すれば怒られる。
いつからか、失敗する本当の弱い自分を出すことができなくなってしまった。
しかし、神様は、私たちの弱さをすでに知っておられました。
決して、褒められないような私たちの罪や失敗の罰を、代わりに十字架で受けてくださったのです。
大切なのは、褒められようとして頑張るのではなく、「すでに認められているから頑張れる」ということです。
今日の祈り
神様、あなたはそのままの私を認めてくださっていることを感謝します。それは十字架であなたが代わり罰を受けられたおかげです。 イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。