はじめに
今日は、悪口が絶対になくならない理由についてお話しします。
政府が進めている検察庁法改正案に対して疑問を持った1人の女性が、「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグを作ってTwitterデモを始めたところ、そのタグが瞬く間に広がり、有名人を含む約900万件にも及ぶムーブメントに発展しました。
しかし、その有名人たちに対して、「潰す」「干されるぞ」「黙ってれば良いのに」といった投稿のような激しいバッシングが相次ぎました。
とりわけ、アーティストのきゃりーぱみゅぱみゅさんへの攻撃は熾烈で、結局彼女は投稿を消してしまいました。
その後、きゃりーさんは、このようにつぶやきます。
「誹謗中傷を気にするな、なんて難しいよ。芸能人だって1人の人間。忘れないで」
しかし、問題はこの後です。
きゃりーさんはさらに炎上してしまいます。
「あなただって安倍首相を誹謗中傷していたじゃないか!」というさらなる誹謗中傷が殺到したからです。
誹謗中傷を問題視するニュースが多い今日この頃ですが、このきゃりーさんのSNSでの一連のやり取りを見れば、これは根の深い問題だと思いました。
今日の記事で説明する人間のメカニズムを知れば、絶対なくならないことがわかるので、悪口と戦う必要がないことがわかります。
最後には「じゃあ、どうすれば良いのか」についてお話しします。
なぜ、悪口は絶対になくならないのか?
簡単です。
人間同士で指摘しあっても「そっちこそどうなんだ主義」になってしまうため、悪口は絶対になくならない。
まず、そっちこそどうなんだ主義を説明します。
「そっちこそどうなんだ主義」英語だと「whataboutism(ワタバウティズム)」
冷戦時期において旧ソ連が使用したプロパガンダの手法。
ソ連が批判されたとき、その返事が「~こそどうなんだ?」になることから名づけられた。
例えば、野崎昭弘さんの本に出ていた例ですが、
「あのう、お宅のピアノのことなんですが、夜分はやめていただけません? うちは子供が小さいものですから……」
野崎昭弘『詭弁論理学 改版』p.48、中央新書、2017年
「あーら、お宅のお子さんのうるさいの、知らないの? それにお宅でトイレ流す音だって、すごいのよ?どうお、お宅で、トイレやめてくれる?」
先ほどのきゃりーさんに対する書き込みも同じです。
「あなただって安倍首相を誹謗中傷していたじゃないか!」
まあ、きゃりーさんが安部首相を誹謗中傷していたわけではないですが、結局、「お前も同じことしてるくせに、人を裁くな」と言う趣旨です。
そもそも、きゃりーさんの件では、批判と誹謗中傷の違いをごちゃ混ぜにした人の書き込みが原因です。
きゃりーさんの政府の方針に対する一国民としての批判と、きゃりーさんに対する「潰すぞ」と言う誹謗中傷の違いがわかっていません。
ちなみに、批判と誹謗中傷の違いは次回取り上げます。
では、もし、きゃりーさんが、「私は安部首相を誹謗中傷していたわけではありません」と返信していたらどうでしょう?
もっと、炎上したでしょう。
おそらく、「じゃあ、お前は全く誹謗中傷したことがないのか?」
「あなたはそんなに正しいのですか?」
など、本質的なところに議論が及んだ可能性もあったのです。
つまり、私たち全ての人間が悪口や誹謗中傷をしてしまう以上、「お前もだろ」と言われるんで、誹謗中傷はなくならないのです。
もしかすると、「悪口」は言ったことないと言う聖人のような良い人もいるでしょう。
しかし、悪口を口に出さないから、聖人ということにはなりません。
なぜなら、私たちは誰もが例外なく、心に悪意を持ってしまうので、罪という観点から見れば、みんな他の人の悪を裁ける存在ではないからです。
これは聖書のいう、「全ての人は罪人である」と言う考えと一致しています。
人間が罪人である以上、「そっちこそどうなんだ主義」はなくなりません。
じゃあ、私たちはどうすれば良いのでしょう?
この「そっちこそどうなんだ」論争を一撃で終わらせた人がいました。
それは、イエス・キリストです。
律法学者とパリサイ人が姦淫の罪を犯した女性をイエスのもとへ連れてきました。
旧約聖書には、姦淫の罪を犯した人は石打の死刑と書いています。
「あなたはどうするのか?」とイエスを試したのです。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
聖書(ヨハネ8:7)
その後、すべての人はその場から去りました。
なぜですか?
罪のないものはいないからです。
みなさん、実はイエス様こそ、「そっちこそどうなんだ主義」を使ったの気づきましたか?
論点をずらして、最も大切な論点に目を向けさせたのです。
それは、神の前では人間はみな罪人。
誰もお互いを裁けない。
人の罪は神に任せて、まずあなた自身が、神の前で罪を認めなさい。
でも、誰もイエス様に「お前もだろ」とは言えないんです。
イエス様は罪を犯さなかったから。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
聖書(ヘブル4:15)
つまり、誰かを罪に定める(裁く)ことができるのは神であるイエスキリストだけだということです。
これは悪口にも適用できるのです。
私たちが、悪口を言うな!と言っても、お前も言うな!と無限ループになるのは理解できる。悪口を言わない人はいないのだから。
なので、みんな悪口を言うべきではないし、「お前もだろ!」とも言って裁いてはいけない。
じゃあ、私たちはどうすれば良いのか?
まず、自分が悪口を言ってしまう、罪深いものだと言うことを神の前に認めること。
そうすれば、他の人を指摘することはできないことに気づくのです。
イエス様は、この姦淫の女性にこのように言われました。
10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
聖書(ヨハネ8:10-11)
11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕
キリストは、悪口を言ってしまう自分の罪を認めたものを、赦されます。
では、旧約聖書の「姦淫するものは石打の刑」という律法はどこにいったのでしょうか?
「赦す」ってそんな簡単に言っていいのか?イエス様は、律法を破ったのか?
いいえ。
イエス様は、自分は悪口を言ってないのに、全人類の悪口の罰を十字架で受けられました。もちろん、この姦淫の女性の罪も背負ってます。
そして、自分に悪口を言った人に、「赦してください」と嘆願しました。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
聖書(ルカ23:34)
イエスキリストは、罪の本質を指摘し、罪を自分が背負って罰を受けることで、人間同士が争う無限ループ「そっちこそどうなんだ主義」を終わらせたのです。
まとめ
なぜ、悪口が絶対になくならないのか?
人間同士で指摘しあっても「そっちこそどうなんだ主義」になってしまうため、悪口は絶対になくならない。
すべての人間が不完全で、罪を犯してしまう以上、私たちには、悪口を撲滅することはできません。
しかし、終わらせることのできるお方がただ一人います。
それは、イエスキリストです。
「罪のないものから、石を投げなさい」
これが言えるのは、神様だけです。
私たちはどうすればいいのか?
まず、自分が悪口を言ってしまう、罪深いものだと言うことを神の前に認めること。
そうすれば、他の人を指摘することはできないことに気づくのです。
そして、悪口を言ってしまう、こんな私の罪が赦されていることに目を向け、感謝すること。
そうすれば、他の人の悪口に対しても、言い返すのではなく、イエス様の愛に免じて赦すことができるのではないでしょうか?
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