ある心理カウンセラーの言葉に妙に納得しました。
相手がどんなに愛してくれていても、私たちに「愛情を感じる力」がないと「愛されていない」と思ってしまう。
自分なりに愛を表現しているつもりでも相手から「どうして私のことを愛してくれないの?」と言われれば、
「こんなに愛しているのになぜわかってくれないんだ…」と落ち込んだり、「どんなに頑張っても無駄なのか」と諦めてしまうことってありますよね。
実は、神様との関係も同じです。
みなさんは、神様は、私たちを偽りのない愛で、全力で愛してくださっていると信じていますか?
でも、なぜ、「不安になったり、恐れを感じたり、見捨てられている」と感じてしまうことがあるのでしょうか?
それは、私たち側に、神様の愛の大きさと深さを感じる力がないからです。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
聖書(ローマ8:32)
神様は私たちにプラスになるものすべてのものを恵んでくださると書いています。
しかし、その前が大切なのです。
神様は、御子イエスキリストを私たちに与えてくださると言っています。
実は、イエス様ご自身が与えられることが、私たちにとって1番よいのです。
私たちは、イエス様ご自身よりも、他のすべてのものを欲しがるので、いつも満たされないのです。
神様の愛を感じ取れないのです。
御子をさえも惜しむことなく死に渡される愛とはどのような愛でしょうか?
それは、命を犠牲が伴う愛です。
2008年5月12日、中国の四川省でマグニチュード8.0の大地震が起こりました。
大きな余震も続き、住民に想像を超える被害をもたらしました。
公式の被害規模は死者約69,000人、負傷者約374,000人、行方不明者約18,000人、経済的な被害を受けた人は約46,160,000人でした。
救助活動の中で、うずくまった姿勢で数十トンもの瓦礫の中に埋もれていた女性が発見されました。
救助隊は、驚くべき光景を目にしました。
なんと彼女の懐には眠っている赤ちゃんがいたのです。
彼女の息はすでに絶えていましたが、手元には携帯電話がありました。
そこには、一つのメッセージが残されていました。
「愛しいわが子へ、もしあなたが生きていたなら、このことだけは覚えていてね。お母さんはあなたを愛しているのよ」
母親は崩れ落ちる瓦礫を全身で食い止めて、子どもを守ったのです。
キリストは私たちの罪の罰を受けるために、私たちが罪責感を持つことなく、信仰によって生きれるように十字架で死んでくださいました。
神の命の犠牲。これ以上の大きな愛はありません。
十字架の愛を感謝していくなら、心に空いたどんな穴も埋まります。