朝、仕事に遅れそうな時、何らかの事故で電車が遅れると、イライラすることもあるでしょう。
しかし、これは自分でコントロールできる問題ではありません。
自分の力でコントロールできない事柄に怒りを感じても、結果は変わりません。
無駄なエネルギーとなります。
結局、1番賢い対応は、怒りの対処法の3つ目「気にしない」ことです。
これは、出来事だけではなく、人間関係でも同じです。
聖書は、他の人の言動に気をとめるなと言っています。
愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。
聖書(箴言12:16)
「辱め」を新共同訳では「軽蔑されても」と言っています。
つまり、侮辱しても、軽蔑しても、恥をかかせても、嫌なことをされても「気にするな」という意味です。
普通、嫌なことがあれば、気になります。
その時、3つの行動があります。
相手に表すなら、怒りなり、他の人に言えば、愚痴になる。
誰にも言わないばら、悶々と溜め込むことになる。
どれも、良い反応ではなさそうです。
聖書に「気にしない」秘訣が書いています。
それは、神様が自分に何と言っているかだけを気にすることです。
もちろん、他人の忠告は聞いた方がよい時があります。
しかし、まずは神に向かうことが大切です。
侮辱されても黙っている姿から、十字架のイエスキリストを思い出します。
なぜ、キリストはこのような対応ができたのでしょうか?
それは、父なる神との親密な関係を土台にした高いセルフイメージ、自己肯定感です。
自己肯定感が高い人は、幼少期に両親からたっぷりと愛された人に多いそうです。
私のように小学生の時に両親が離婚しており、父親との関係に問題があった人でも、大丈夫です。
父なる神の愛をたっぷりうけることで、健全な自己肯定感を回復することができます。
誰かから「お前は本当に使えないなあ」と言われても、「あの人はそう思うんだ。でも、神様はそうは思っていない」と考えることができます。
父なる神が私たちをどう思っているかは聖書にたっぷりと書かれています。
「私たちは、神がいのちを犠牲にしたくらい愛されている存在です」
「私たちは、神に似せて造られた尊い存在です」
その上で、神に祈ればよいのです。
神様は、私に悪いところがあるならば、あなたが教えてください。
神様にボールを投げたら、あとは気にしないことです。