「物覚えが悪い」ことに劣等感を抱いていると、それを気にもせず、笑っていられる人たちにイライラします。
それは、「◯◯ができない(◯◯をもっていない)自分は嫌われる」と無意識に思い込んでいるからです。
愛されない「恐れ」から自分を守っている防御反応とも言えます。
私たちができない、もっていないと思い込んでいることは、主に次の4つだと言われています。
①仕事・能力
成果、スキル、センス、コミュニケーション力、リーダーシップがないなど
②人間関係
人気、魅力、人望がない、仲間・友達が少ないなど
③所有物・立場
学歴、地位、資格、お金、幸せな家庭をもっていないなど
④健康
健康ではない、病気である、障がいがあるなど
なぜ、劣等感を感じるのか?
それは他人と比較しているからです。
聖書は、私たちをからだの各器官にたとえ、互いに助け合うために異なる器官が存在すると言っています。
格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
聖書(1コリント12:24)
比較すれば、劣っているように見える器官があることを聖書は否定していません。
しかし、大切なことは、比較して、「お前はダメなやつだ」とか、「俺なんか必要ないんだ」というのではなく、お互いを助け合うことだと言っているのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
聖書(1コリント12:25)
自分の中に「苦手だなあ」と思う部分があれば、誰かに助けて貰えばいいのです。
助けてもらったら、「俺は仕事ができないからいつも迷惑かけてる」と思う必要はありません。
ただ「ありがとう」と言えばいいのです。
人は人の役に立つこと、「貢献」できる自分にすばらしさや喜びを感じるからです。
逆に、自分の中に、「これは得意なんだよな」「これくらいならできるかな」と思えることがあれば、誰かを助けるために与えられたと思いましょう。
人は何かを受け取ることよりも、与えた方が幸せを感じやすいという研究データもあるくらいです。
私たちは今まで多くの人に助けられて支えられてきました。
一人暮らしをしてみて、当たり前に料理を作ってくれていた母親の偉大さに気づきます。
自分で働いて得た給料の中から、食費や、光熱費を払って、父親の偉大さに気づきます。
学校では先生、会社でも上司の助けや我慢がありました。
できないことで落ち込むのではなく、周りの助けに感謝しつつ、自分が少しでもできることで誰かを助けることを心がけましょう。
そうすれば、劣等感でも優越感でもなく、感謝による幸福感が私たちを満たすことになります。