古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「自分が無知であることを知ることこそ知恵である」つまり「無知の知」という言葉を残しました。
しかし、実際は自分が無知であることを知ることはとても難しいようです。
人は、「自己奉仕バイアス」により、実際以上に自分は物事を知っていると思ったり、自分の推論が実際以上にいいと信じ込んだりしてしまうからです。
聖書は、私たちがいかに思いちがいをしやすいかを示しています。
4 あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、
聖書(イザヤ48:4-5)
5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とか、あなたが言わないようにするためだ。
この箇所は、神様が預言者イザヤを通してイスラエルの民に語った言葉です。
神様は、イスラエルの民を頑なだと叱責します。
イスラエルの民は、「良いことが起これば」自分たちが作った偶像がしたと信じていたからです。
しかし、聖書を見ていけば、神様がこのイスラエルの民を特別に愛しておられることがわかります。
にもかかわらず、彼らは神様の言葉を頑なに拒否しました。
このイスラエルの姿は、私たちにも重なるのではないでしょうか?
私たちは、いろいろなことを聞き、学び、考えが形成されています。
例えば、学校教育で習った人間は猿から進化したという考え。
神なんていないという考え。
死んだら、生まれ変わるという仏教的な考え。
本当にこれらの考えが100%の正しいのかは実は誰も証明できません。
逆にこれら全てについて、聖書を通して神様はすでに答えておられます。
この世を造った創造主なる神がおられること。
死んだ後の世界があり、私たちが生まれ変わるのではなく、一個人として神の前に出なければいけないこと。
今日、一度立ち止まって、考えて見てはいかがでしょうか?
自分は本当に全てを正確に知っているのだろうか?