聖書の中には、神から特別の使命を与えられ、その使命を果たすように招かれた人びとが描かれています。
それを召命と言います。
モーセも神の召命を受けましたが、その理由は何だったのでしょうか?
彼が特別だったからでしょうか?
わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
聖書(出エジプト記3:8)
彼らとは、イスラエルの民です。
今から3600年以上も前、彼らは、大国エジプトで奴隷状態でした。
7節で、神はイスラエルの状態についてすべてを知っておられると言います。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
聖書(出エジプト記3:7)
神はそのイスラエル人たちをエジプトから連れ出し、約束の地へ導くと語られました。
これが、神様がモーセに現れた理由です。
ここには、モーセが指導者に相応しかったからとか、モーセについては何も書かれていません。
ただ、神様はイスラエル人たちの悲惨な状況を知り、モーセをそのために用いると決めただけです。
ここに、「召命」についての大切なポイントがあるのです。
召命とは、「私」のためじゃないということです。
神のためであり、神の民のためです。
もちろん、私たちも神の民です。
しかし、神は受け身の人々を求めているのではなく、たった一人であっても、神の計画を成し遂げるために従う信仰者を求めているのです。
召命とは、私たちのビジョンや夢を果たすために、神様が許可したり、力を与えたり、応援するものではないということです。
まず、神様の側にビジョンや計画、成し遂げたいことがあり、それを遂行するために、人を選ぶということです。
人間のビジョンや夢を果たすために神を求めることは、偶像礼拝です。
人間が、神をコントロールしようとしているからです。
本来は、神が人間を用いるのです。
「神にコントロールされたくない」「俺は神のロボットか」と変な気持ちになる人は、神様に用いられることがどれほど名誉なことかをわかっていません。
そういう人は、自分の好きなように生きればいいのです。
しかし、神の召命を受け、それに従う人は、神に栄光を捧げる素晴らしい人生を歩むことができるのです。
もちろん、大変なことがあります。
200万人の奴隷が国を出るなんて、エジプトが許すわけありません。
たとえ、エジプトを出たとしても、8節にあるように、約束の地には、カナン人、ヘテ人、エモリ人など、多くの先住民族がいるので、そこには戦いがあることが示唆されています。
実際に、イスラエルの民は戦うことになります。
また、イスラエルが今住んでいる,エジプトのナイル・デルタにあるゴシェンの地のほうが、肥沃で住みやすいとおもわれるので、民の反発も避けられません。
実際に、モーセは民に何度も反発されます。
しかし、イスラエルの民がエジプトから解放され、約束に地に住むようになったこと、神が決められた計画だったのです。
現代においても神様は苦しむ人々の声を聞いています。
そして、探しているのです。
誰か、この民を救い出す私の計画を実行するものはいないか?
あなたはどうですか?