今日は「クリスチャンには禁止事項があるの?」という疑問について、
聖書にどのように書かれているのか説明していきます。
このクリスチャンQ&Aシリーズでは、クリスチャンに関わる素朴な疑問から、
少しディープな問題、普段はなかなか聞きにくい内容…等について、
洗礼を受けて数カ月の筆者みずきが、ゆうき牧師に質問をしていき
聖書をもとにわかりやすく解説していくシリーズとなっています。
この記事の内容はYouTubeでも話しているので、よかったらYouTubeも見てくださいね!
取り上げて欲しい疑問や話題があれば、ぜひYouTube動画のコメント欄でリクエストをお願いします!
クリスチャンに禁止事項はあるのか?
私がクリスチャンになったことを知っている友達が、
数少なくではあるんですけどいるんです。
そこで、生活上で禁止になったこととか
何かあるのか?という疑問があったようで、聞かれました。
クリスチャンが日本に少ないのもあって、ほとんど未知の世界ですよね。
日本の宗教に対するイメージや雰囲気もあるのかもしれないですが、
制限が多くて「~してはいけない」っていう中で、粛々と祈っているみたいな。
修道院の女性になったの?と思われるレベル。
なるほど、それぐらいのイメージなのかもね。
修学旅行とかでも函館に修道院の見学行ったりとかね。
そうなると早朝に起きて、掃除をして…って、修行のように見えるんだろうか。
そんなイメージだったらクリスチャンになるの、ちょっと嫌じゃない?
それで救われていると聞いても、ピンとこないんだろうな、と思いますよね。
3月に洗礼を受けてクリスチャンになったものの、生活の禁止事項については知らなくて。
私の夫がもともとクリスチャンですが、
特に禁止されているような雰囲気はありませんでした。
それで自分はあんまり疑問に思わずに、クリスチャンになったんですけど…
改めてノンクリスチャンの方から聞かれると、
そういえば聖書に何か書いてあるのかな?って
クリスチャンになってから疑問に思いました。
もしかして、知らないうちにやっちゃいけないことしてる?とちょっと不安になりました。
みずきは今クリスチャンになって、何ヶ月か経ってるけれど
制限されている雰囲気は感じる?
自分が教会にいて雰囲気を感じたりはしてないですね…
モーセの十戒ってノンクリスチャンの方も知っているくらい有名だと思うんですけど
今回ここで話すにあたってもう一回ちゃんと、振り返ってみようと思って。
出エジプト20章 3-17節に書いてあってまとめると10個だなと。
これがいわゆる禁止事項なのかな?と思いました。
ただ、クリスチャンの禁止事項=十戒がそうなのかどうか?
調べたものの、答えはわかりませんでした。
モーセの十戒が禁止事項なのか?
1他の神があってはならない
2偶像礼拝をしていけない
3主の名をみだりに口にしない
4安息日を聖なるものとする
5父と母を敬え
6殺人を犯してはならない
7姦淫を犯してはならない
8盗みを犯してはならない
9偽りの証言をしてはならない
10隣人の物を欲してはならない
僕らが本当に十戒を守るべきなのか?というのも
疑問に思っているクリスチャンはいると思います。
どう思いますか?安息日って守ってます?
日曜日ってことですよね?
当時は金曜日の日没から土曜日の日没です。
普通に仕事してますね…
みずきがユダヤ人だったら犯してますよね、十戒。
あらまぁ!どうしましょう…
禁止事項は、あらゆる罪を犯すことです
クリスチャンは普段の生活の中で禁止事項あるのか?
それは「あらゆる罪」を犯すことです。
「十戒」これを破ることは罪、という定義にもなるんだけれども
聖書のなかで一番最初に出てくるのは十戒、
そしてそれをを含む「613の律法」というのが旧約聖書に載っています。
10個が一番メインなんだけど、他に613あるんですよ。
えー!そんなにあるんですか!?どうしよう、守れている気がしません。
「~してはならない」という禁止事項と
「~しなさい」という積極的に守りなさい
という二つパターンがあります。
実は、罪って禁止事項をやぶるのがいかにも罪っぽいんだけど、
例えば「いいことしなさい」と言われてそれをしないのも罪なんです。
つまり「人を助けなさい」と言われて助けないのも罪。
十戒が今の時代にに適応するのかと言うと、
たとえば安息日でいうと難しいというかできないし、僕も守ってない。
律法っていうのは、難しい話になるんですけど、一言で言うならば
『僕らはイエス・キリストを信じて、律法の中で大切にされてるものを守る』
というメッセージです。
それは神を愛して隣人を愛するというエッセンスがこの中に全部含まれているんですよね。
神を愛し、隣人を人愛するならばこの10個は守られるはずだ、ということです。
「神を愛し隣人を愛すること」が最大のメッセージ!
なるほど。きまりが先なのではなくて、
神を愛し隣人を愛することができるならば、
これらのことはしないよね?ってことですね。
そうです。
人殺しちゃいけないのはなぜかと言うと、牢獄に入れられるからじゃないですよね。
それは隣人を愛していない行為だし、家族が悲しむ。
盗んではならないのも、盗まれた人へこむでしょう?
もし僕の結婚指環を盗まれたらへこむし、500円でもへこむかもしれない。
だから「十戒を守らないと!」という、制限に縛られるんじゃないんです。
焦点はそこじゃない。
守る守らないという点を議論するのがクリスチャンじゃなくて、
神を愛し隣人を愛することを進めていくからこそ、結果的に悪いことすることにはならない。
でも、神や隣人を愛しましょうとだけ言っても伝わらないから、
神さまが613の具体的なことを僕らに分かりやすくしてくれてるという事です。
十戒や律法は、私たちのことを縛ろうとしているんじゃなくて、
具体的に分かりやすくしてくれているんですね。
そうです。それが十戒であり律法です。
結局、私たちは殺人は犯してないけれども、小さな嘘をついてしまうことがある。
イエス・キリストは、心の中で「あいつ馬鹿だ」ってって言っただけでも
殺人と一緒って言っています。
基本的に僕らって神さまの目から見たら、殺人のようなことを犯している存在なんですよね。
その時に、「自分はやっぱり失敗してしまうんだ」「神さまの基準に到達できない」
となっていくと、どんどん辛くなります。
罪を避けるために、それこそ修道院に入って。
修道院に入る人を尊敬していますよ、でもそうなってくるしかなくなってしまうじゃないですか。
そうではなくて、父と子の関係で見ていくと、もう少し自由になるんですよ。
父と子の関係から考える
父と子の関係が、ここにも関わってくるんですね!
そう。どういうことか?
たとえば、自分の子供がコンビニで万引きをしました。
窃盗罪、十戒も犯してるしダメですよね。
でもみずきが親だったらどうします?
うーん…ダメなことだと教えるし、一緒に謝りに行きますね。
自分の子供がコンビニで万引きしたら、自分が一緒にコンビニになり警察に行って
「代わりに私が弁償します」っていうのが親ですよね。
あなた罪を犯したんだから、地獄に行くし刑務所に行くし、縁も切りますし
という親はちょっと冷たすぎるでしょう?
大切なのは本人が悪いことを認めて償うこと、謝ること、悔い改めることですよね。
禁止事項破ったからもうあなた終わりですよというのは、キリストの精神じゃない。
僕らは、罪を犯さないように頑張るんだけどやってしまう、子供のように。
謝って償って、次はやらないようにするという心が大切。それが実は十字架の意味です。
父と子の関係から、イエス様の十字架にもつながるんですね。
僕らは罪があるから、神の律法を知っていても破っちゃうんです。
でもイエス・キリストが十字架で代わりに僕らのために償ってくれた。
キリストは僕らの罪の代わりに、命を差し出して償ってくださった。
その時、僕らがそれを知ってどうするかというと
「ありがとう」「ごめんなさい」「もうしないようにしたいです」ということです。
日々自分が罪を犯してしまっている自覚をもって、
悔い改めながら生活するということですね!
そうです。だからクリスチャンに禁止事項があるのか?
というと、あらゆる罪を犯すことなんだけれども
それをするしないっていうとこにフォーカスを当てるのではなくて
毎日自分に罪があってそれを贖われていることを、悔い改め感謝する。
僕らが束縛を感じるのか?赦された喜びを感じるのか?
そこはクリスチャンの中で生命線になります。
聖書に次のことが書かれています。聖書のみことばを信じ、感謝しましょう。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします
ヨハネの福音書 8章32節
まとめ
Q:クリスチャンは生活での禁止事項はあるの?
A:あらゆる罪を犯すことです。
旧約聖書には十戒と613の律法があります。
しかし、クリスチャンはそこで禁止事項を犯さないように束縛される存在ではなく、
すでに破ってしまっているどうしようもない自分が赦された、ということを自覚し
悔い改めて感謝することが大切です。
神を愛し隣人を愛するために、前向きに生きていきたいという自由がある。
それがクリスチャンの生き方です。
補足:律法について
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。
ガラテヤ人への手紙 3章24節
それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
養育係というのは、律法を破ったらもうあなたは地獄に落ちます!
ではなく、しっかり教えに導かれた道に沿って生きていくための訓練する役割だと言っています。
この律法があることにより、神様が何を喜んで、何を悲しむかを私たちは知ることができます。
律法を守ることで止まってはいけません、それを律法主義といいます。
こうしなければいけない、ああしなければいけないと、
自分に課して他人も責める人です。そこに自由はなく、人を束縛します。
律法も十戒も養育係であって、一つの指針ではありますが
お互いに裁きあうためのものではないということです。
十戒、613の律法というのは、ユダヤ人イスラエルのために与えられたものであって
基本的に僕らに与えられたものではありません。
全てを文字通り僕らが適応できない部分があります。
それに、聖書にはキリストが律法を成就した、終わらせたとも書いてあります。
ここを今、どこまで守るのかという所はまた違う議論になってきますが、
十戒と律法のエッセンスを私たちは守っていくことが大切です。
読んでいただきありがとうございます。このメッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。