部屋を借りるときに必ず探さないといけないのが連帯保証人。
ほとんどの人が親にお願いしているそうですが、たまに友人から保証人を頼まれることがあります。
自分がなる場合はどうすれば良いのでしょうか?
聖書は、軽々しく連帯保証人になってはならないと言っています。
あなたは人と誓約をしてはならない。負債の保証人となってはならない。
聖書(箴言22:26)
なぜ、誰かの保証人になってはいけないのでしょうか?
誰かの保証人になるということは、財産はもちろん、家族にも大きなリスクを負わせることになるからです。
あなたに償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪ってもよいだろうか。
聖書(箴言22:27)
万一、その人が返せなかった場合には、自分が代わりに返すことを約束することが、保証人であるからです。
これは法的に執行されることであり、どんな理由があろうとその責務を果たさないことは、民事法に問われて、あなたが罰せられるのです。
それゆえに聖書は、やたらに保証人になることについて、親しい隣人や親族であったとしても彼らのために保証することを勧めていないのです。
でも、実際に家を借りるときには誰かに保証人になってもらわないといけません。
どうすればいいのでしょうか?
まず、なるとしても、自分が払うことを覚悟してサインするべきです。
また、最近では、保証会社を利用すれば保証人がいなくても借りることができる物件はあります。
ただ、聖書は、保証そのものに反対しているわけではありません。
ユダがベニヤミンのために保証人になったこ とは、全家族の救いへとつながりました。
私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。
聖書(創世記43:9)
他にも聖書には、神に自分の保証人となってくださるよう嘆願することばが、所々に出てきます。
主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。
聖書(イザヤ38:14後半)
つまり、箴言のポイントは、「保証人となることについて非常に慎重でありなさい」ということです。
義理や人情で安易に保証人になり、友に裏切られたと深く傷ついたり、自分の家族を失ったりすることを覚悟しなさいという事です。
特に、連帯保証人は、負債者が返済できないとき、負債者に代って、全責任を負うことが求められます。
まさに、身代わりとなるのです。
それだけの覚悟、身代わりになるほどの愛がなければ、とても保証人になることは出来ないのです。
しかし、人類史上、ただ一人だけ、自ら進んで、私たちの連帯保証人となって下さった方がいます。
イエス・キリストです。
私たちの誰もが、罪という負債を負い生きています。
それは、自分では返済不可能でありました。
イエス様は、その負債の請求、つまりご自分のいのちを、私たちの代わりに差し出すことによって、負債を全て完済されました。
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。
聖書(ヨハネ19:30)
ここでの「完了した」はギリシャ語で テテレスタイ。
その意味は『負債はすべて返された』です。
連帯保証人になるための覚悟をもち、愛を持って本物に、代わりに負債をいのちをかけて完済された神が、私たちを造られた神イエス・キリストです。
全てを肩代わりする神の愛があって初めて、私たちは誰かの連帯保証人になることが可能になるのです。