「武漢の市民は都市を離れないでください」
2020年1月23日、武漢が一晩で封鎖されました。
マスクや消毒用品はすぐに品切れ。
一番安全なのは、マスクを買いだめし、自宅から出ないこと。
しかし、まったく、違う動きをする集団が現れました。
黄色い服を着た人たちです。
彼らは医者ではありません。
彼らは警察でもありません。
彼らの名前を知ることはできません。
彼らはイエス・キリストを信じたクリスチャンです。
彼らはマスクとともにこのように声をかけているそうです。
「神様はあなたを愛しています」マスクを配るだけでなく、不安の中にいる人々に、イエスを信じるものに与えられる平安を伝えているのです。
武漢にいるキリスト教伝道師のLuoさんはこう言っています。
「今、武漢は百年に一度あるかないかの大きな災難に見舞われています。
皆さんの心は大変もどかしいと思います。 私たちの命も大きな危険の中にあります。
今、クリスチャンたちがこの小さなマスクを無料で差し上げています。
皆様に慰めになるように、ここに神の愛が現れることを願っています」
もし、私の周りで同じようなことが起こったらどうするのか?
彼らと「同じようにできる!」と自信満々には言えない自分がいます。
そこで、1つの疑問が湧き上がりました。
彼らの「自己犠牲の行為」の原動力はどこから来るのか?
その答えは、今日の箇所にあります。聖書から見て行きましょう。
ツァラアトとは?
マタイの福音書に、イエス様がツァラアトに冒された人を癒す箇所が出てきます。
イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
聖書(マタイ8:1-2)
ツァラアトとは何でしょうか?
「ツァラアト」とは、ヘブル語で、皮膚病を意味します。
ツァラアトは人に感染する可能性があったようです。
感染という意味においては、コロナウイルスと似ています。
聖書の訳によっては、ハンセン病とか、らい病とも書かれていますが、特定することは難しいため、2017版ではツァラアトというヘブル語をそのまま使っています。
しかし、当時のイスラエルでツァラアトは単なる感染病ではありませんでした。
次のような意味をツァラアトは持っていました。
①嫌悪
ツァラアトは、ユダヤ人が最も忌みきらっていた病です。
②隔離
ツァラアトは、感染するので社会から隔離されました。
患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。
聖書(レビ 13:45-46)
③不治
ツァラアトが、癒されることはほとんどありませんでした。
ラビは、彼らを生ける屍として扱い、彼らがいやされ ることは死者が生き返ることと同じくらい難しいと考えたそうです。
旧約では、神がこの病をいやされた記事がありますが、それも二度だけです (民数記 12:10〜15、2列王記5章)
④罪人
ツァラアトは、罪と結びつけられることがあります。
その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。
聖書(レビ 13:46)
つまり、ツァラアトという皮膚病にかかることは、「社会からの隔離と深い絶望」を意味しました。
ツァラアトに冒された人を癒すイエス
では、イエス様は、このツァラアトに何をしたでしょうか?
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
聖書(マタイ 8:3)
癒したのです。
しかも、触りました。
ここで起こっていることは、病の癒しと心の癒しです。
イエス様は、手で触れなければいやすことができない方ではありません。
みことば一つで、どのような病であっても いやすことのできる方です。
それにもかかわらず、手を伸ばされたのは、あふれる愛を示すためです。
神と人から隔離された人の心を癒したのです。
しかし、ここでもう一つ大きなことが起こっています。
病の癒しと心の癒しと…
罪のきよめです。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
聖書(マタイ 8:3)
なぜ、「癒し」ではなく、「きよめ」という言葉が使われているのか?
それは、 ツァラアトの本質は、単なる病ではなく、罪のきよめだったからです。
ツァラアトは罪の本質を表す型です。
人々との接触が一切許されないということは、人にとって最も辛いことです。
罪によって私たちは神との隔離。人や社会からの隔離を経験します。
しかし、ここの箇所では、その罪そのものを解決できるお方がイスラエルにきたということを表しているのです。
イエス様が起こされた奇跡には、マジシャンのような単なるパフォーマンスではありません。
聖書には、エジプトの呪術師も奇跡を起こしたと書いています。
イエス様の癒しは、 「すべての罪の問題を完璧に解決することのできるお方が誰であるかを示す」 意味を持つのです。
それは、聖書の創世記から黙示録まで、一貫して流れるテーマ。
「イエスはキリストである」ということです。
ツァラアトの癒しはメシアが来られたということ
キリストとは、ヘブル語でメシア。
救い主です。
つまり、イエス・キリストとは、「イエスこそ、イスラエルが待望してきたメシアだ!」ということなのです。
ユダヤ人は学校でパリサイ人から教育を受けます。
聖書には、メシアが来ると言っている。
メシアは神だが、人として来る。
メシアは、次の3つのことをされるから、ちゃんと知っておきなさい。
- 生まれつき目の見えない人を癒す事が出来る。
- ツァラアトの人を癒す事が出来る。
- 目も見えず、口も聞けない人で悪霊に取り付かれている人を癒される。
ぜひ、今度聖書を読むとき、イエス様がした奇跡をこの視点で見てみてください。
今回の箇所は、2.ツァラアトの人の癒しです。
旧約聖書でわずか2回しか起こらなかったことを、イエス様は何度も行いました。
なぜ?
メシアだから。
つまり、このツァラアトの人の癒しは、単なる病の癒しでもなく、心の癒しだけでもなく、
罪の問題を完璧に解決できる、メシアがイスラエルに来られたというビッグニュースなのです。
では、冒頭の質問に戻りましょう。
コロナウイルスの感染を恐れないで愛のマスクを配る武漢のクリスチャン。
「自己犠牲の行為」の原動力はイエスに出会って欲しい思い
彼らの「自己犠牲の行為」の原動力はどこから来るのでしょうか?
それは、自分がメシアにあって、心が癒され、罪が赦されたように、一人でも多くの人に、メシアなるイエス様に出会って欲しいからです。
武漢の黄色いクリスチャンを取材した人はこのように言っています。
死を待つ患者たちが暗闇で希望を見たようです。
彼らはまるでイエスがツァラアト患者に会った時のように、人々が接触することを恐れる絶望の中の患者に会っています。
彼らに神様を信じなければならないと教え、ただ神様だけが絶望の中で彼らを救うことができると教えています。
多くの患者が偽りを捨てて真理に戻り、主を信じて偶像を捨てると応答しました。
人々が神様への信仰を受け入れ始めました。
福音はこのように小さなマスクと共に伝えられています。
彼らは助けが必要な人のためにホットラインを開設し、 孤独、恐れ、憂鬱、絶望を感じたときに連絡してくださいと言います。
【結論】神にはできる。
献身的な医者によって病が癒され、たくさんのボランティアによって人々の心は癒されるかもしれません。
しかし、医者やボランティアにはできないことがあるのです。
それができるのは、メシアなるイエス様ただお一人です。
イエスキリストによってのみ、それが可能です。
今回のことを通して、多くの人の人生がイエス・キリストによって祝福されることを祈ります。
人をきよめることは、私たちにはできません。
しかし、神にはできるのです。
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
聖書(マルコ 10:27 )
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参考: Nehemiah Tan YouTube