「親しき仲にも礼儀あり」とは、どんなに親密で親しい間柄であっても、守るべき礼儀があるという意味を伝えることわざです。
仲が良すぎたり、関係が深すぎたりすると、つい気が緩んでしまい、一線を越えて礼を欠いたことをしてしまいがちです。
またそのことから人間関係を損なうことがあるので、気を付けなければならないという戒めの意味を持っています。
聖書に出てくるモーセは、聖なる神に会う時「履き物を脱げ」と言われました。
4 主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
聖書(出エジプト記3:4-5)
5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
「あなたの履き物を脱げ」とは、モーセに神がおられるその場が聖なる所であることを知らせるためです。
ホレブと言う荒野が聖なる場所なのではなく、神がおられる場所が聖なる場所になるのです。
旧約聖書の祭司も、 聖所で奉仕するとき、履物をはきませんでした。
では、「履き物を脱ぐ」とはどういう意味でしょうか?
①神を恐れる態度のこと
誰かの家に招かれて、土足のままリビングに入って行くなら、相手に対してものすごく失礼な態度になります。
つまり、「履き物を脱ぐ」とは神様に対する礼儀をもった態度と言えます。
神様は、「聖なるお方である」のです。
さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
聖書(出エジプト記3:6)
モーセは、聖なる神への恐れから顔を隠しました。
これは、ある意味ではとても謙遜な態度です。
自分が、罪人であり、聖なる神の前に出るには相応しくないと感じているからです。
私たちは、キリストの十字架によって、私たちは大胆に神に近づくことができるのですが、この神への「畏れ」を失いがちかもしれません。
教会で礼拝するとき、家でインターネット礼拝するとき、祈る時、聖書を読むとき、「神は聖なるお方である」と言う事実を忘れている可能性があります。
あまりにフレンドリーに接してしまってはいないでしょうか?
家の中では靴を脱いではいるものの、私たちの態度は靴を履いたまま土足で神の聖所に入ってはいないでしょうか?
では二つ目の「履き物を脱ぐ」の意味は何でしょうか?
②この世の価値観を捨てること
家に入るときは、外で履いていた靴を脱ぐように、神はモーセにこの世の方法、価値観、人生の目的が神の使命を果たすのには必要ないことを示されました。
「聖さ」とはヘブル語で「カドーシュ」分離を意味します。
モーセが受け取る聖い神の働きは、世のいかなるものから分離され、ただ、神によって成し遂げられることをモーセ自身が知る必要があったのです。
イスラエルの最初の王サウルはアマレク人を滅ぼせという神の命令を受けた時、良いものを分離せずに自分のために残しました。
神はそのようなサウルをそれ以上は用いられませんでした。
すでにエジプトの王子としての自信やキャリアを持っていなかったモーセでしたが、それでも、さらに「履き物を脱いで」何も持っていないものとして、神の前に出る必要があったのです。
今日、神の前に出る時、①神を恐れる態度を持ち、②この世の価値観を捨てていきたいと思います。
私たちは聖なる神の前で「履き物を脱いでいる」でしょうか?