神が私の状況を知っており、私を心配してくださり、私と私の状況を変えることができることはわかった。
じゃあ、どうすればいいのか?
聖書は、ただ神を信じなさい。それでOKと言っています。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
聖書(ヘブル11:6)
神に「近づく者」の近くと言うギリシャ語は、現在時制が使われています。
つまり、継続的に神の近くに行けということです。
私たちの人生には、毎日はトラブルがあります。
だからこそ、毎日、継続的に、神がおられることと、神が報いてくださる方であられることを、 信じるのです。
いや、もっと強い言葉です。
「信じなければならないのです。」
エジプトの考古学者たちが3000年前の古墳を発掘していた時のことです。
発見したミイラのわきに1つの小さな瓶がありました。
ところが、運搬してしていた人が、うっかりその瓶を割ってしまいました。
瓶が割れてしまいましたが、その中にはいくつかのエンドウ豆がありました。
殻はひからびていて、石のように固くなっていました。
なぜ古代エジプト人たちは瓶の中ににエンドウ豆を人れてともに葬ったのでしょうか?
おそらく来世への望みのためでしょう。
その豆を蒔いたところ、驚いたことに30日後に青い芽が出てきました。
3000年間沈黙を守ってきたいのちが、眠りから覚めたのです。
第2次世界大戦が終わった後、ケルンにある地下の壁から次のような文章が発見されました。
「私は太陽が光を放たないときも太陽があることを信じ、愛が感じられなくても愛を信じ、私の人生の中で神が沈黙しておられるように感じても、私はその神を信じる」
いつか、戦争が終わって故郷に帰れる日を待ち望んでいた戦争捕虜が記したものです。
私たちの状況がどんなに悲惨でも、神様が沈黙されているように見放されていると思っても、
全く、変化する希望が見えなくても、芽を出したエンドウ豆のように
みなさん、2000年前の十字架のみわざには力があるのです。
なぜなら、イエス様の十字架は、死を打ち破ったからです。
死んでいても、生きる。
どんな絶望も、希望に変わるのです。
【参考文献】回復への道 (リック ウォレン)2005/9/1