私たちは、うまくいっている時は、どんな山でも登れるように感じることがあります。
しかし、ちょっとしたことで、人生が沈むように感じます。
人間関係が良いと感じていたのに、たった一つ、友人が自分の陰口を言っていたと聞くだけで、今までの幸せが嘘のように心が沈みます。
経済状況が良いと感じていたのに、クレジットカードの引き落としや急な支出が思っていたよりも多く、支払いに不安を感じ、心が沈みます。
仕事でも、たった一つの失敗で自信を失います。
実は、大体、状況は変わっていない場合が多いです。
状況が悪くなったというよりは、もともと、そのような状況があったのに、気づいていなかっただけです。
自分は聞いてなくても誰かは無意識であなたの陰口を言っているものです。
いつ病気になるかわからないし、会社が絶対に倒産しないという保証もないし、普通に生活しているように、常に大きく下振れるリスクを背負って生きています。
その不安定な状況を見た瞬間、私たちは心が沈むのです。
聖書は、人生が沈む時、それは神に叫び祈る時だと言っています。
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
聖書(マタイ14:30)
人生が沈みかけたように感じると、急に恐ろしくなるのはしょうがいないものです。
その時、必要なことは、神様に助けを求めることです。
すると、キリストはすぐに助けてくれます。
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
聖書(マタイ14:31)
「すぐに」とあるように、「すぐに」です。
私たちは沈みかけても、イエス様に助けを求めるなら、決して沈みません。
大事なことは、状況を見るなとか、恐れない心をもてというメッセージではないということです。
あなたの叫びを聞き、すぐに助けてくださる方が、神であるイエスキリストであるということです。
今日の箇所から3つのことを心に留めましょう。
①恐れてもいい(祈るなら)
私たちは人生の困難を見て、恐れてしまいます。
いいんです。
ただし、条件があります。「すぐに祈るなら」です。
恐れても、祈るなら大丈夫だということです。
②信仰は薄くてもいい(祈るなら)
キリストはペテロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いました。
これを言われても落ち込まなくて大丈夫です。
ある意味、褒め言葉です。
ペテロは、信仰が全くない者ではなく、信仰が薄い者だったから、祈れたのです。
信仰は0か100ではないのです。
100の信仰なんて求めなくてもいいんです。イエス様はからし種ほどの1%くらいの小さな信仰があれば山が動くと言われました。
例え、私たちの信仰が、サランラップくらい薄くても、0でなければ、いいんです。
ただし、条件があります。「すぐに祈るなら」です。
信仰が薄くても、祈るなら大丈夫だということです。
③風が吹いてもいい(祈るなら)
私たちの人生には風という困難が必ず吹くのです。
しかし、イエス様が助けにこられたら、風はやみます。
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
聖書(マタイ14:32)
だから、なんで自分の人生は困難だらけなのか?と思って、自分を責める必要はありません。
祈るなら、風はやみます。
人生の困難という風を経験している人ほど、風をやませるキリストの力を体験できます。
そういう人たちは、幸いです。
なぜなら、イエスが神であることをその度に、経験し、神への礼拝が湧き上がるからです。
舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
聖書(マタイ14:33)