2016年、「流行語大賞」の年間大賞に「神ってる」が選ばれました。
6月18日のプロ野球セ・パ交流戦のオリックス戦で、2試合連続のサヨナラ本塁打を放った広島の鈴木誠也外野手に対し、緒方孝市監督が「今どきの言葉で言うなら『神ってる』よな」と表現したことがきっかけです。
『神ってる』とは、もともと「神がかっている状態」を指す若者ことばですが、 実は私たち人間の存在そのものは「神っています」
あなたは、人を御使いより、わずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠を、かぶらせてくださいました。
聖書(詩篇8:5)
あなたとは、詩篇の著者ダビデが、神に対して語ったことです。
つまり、神は人間を「御使い」よりわずかに欠けがある存在として創造されたと言っているのです。
「御使い」と訳されたヘブル語でエロヒムなので、「神々」「神」と訳されることもあります。
人間は天使(あるいは神)より、少し劣った存在というのは、すごい話です。
神に近いほど、すごい存在だということです。
また、神は人に栄光と誉れの冠をかぶらせてくださったとあります。
これは、王がかぶる冠を意味します。
神様は、ご自分の代理をする王的な存在、つまりご自分の代理統治者として人間を創造し、家畜や野の獣だけでなく、鳥や魚などのすべての被造物を治める権威を与えられたのです。
あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
聖書(詩篇8:6)
これは、ダビデが勝手に編み出した思想ではなく、聖書の一番最初の創世記に書いています。
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
聖書(創世記1:26)
聖書ははっきりと、私たち人間の存在は、神に似せて造られた尊厳を持った偉大な存在だと言っているのです。
こうやって聞くと、聖書に書いているのにもかかわらず、「神に似ているなんて高慢だ」「神っているなんて不謹慎だ」という声も聞こえそうです。
しかし、この人間に対する基本的な尊厳は大切です。
これは、自分の存在を大事にすることにつながります。
もちろん、自分を神よりも高くすることは高慢の罪です。
しかし、神に造られた尊いものとして、健康的な自己肯定感は人生を生き生きと生きるために大切です。
神に造られたクリスチャンが、「俺なんてゴミのような存在だ。俺に唾を吐いてくれ。俺を痛めつけてくれ。あなたの靴を舐めさせてくれ」と言っていたらドン引きします。
その人の親がそれを見たら、どういう気持ちでしょうか?
その人に子供がいて、父親が、誰かの靴を舐めていたら、どうでしょうか?
子供にとっては、親にはかっこよく、尊厳を持って、生きていてほしいのです。
同じように、神様も、私たちが、自分なんてダメダメでと自分を否定し、卑下する生き方ではなく、神様から造られた、しかも神に似せて造られたというものすごい偉大なセルフイメージを持って、堂々と生きてほしいのです。
また、健全なセルフイメージは、他人の尊厳を認め、他人を大事にすることにもつながります。
他人に悪口を言ったり、人を騙したり、いじめたりするのはなぜ、悪いのか?
それは、どんな人でも、人間である限り、みんな神ににせて造られた尊い存在なのです。