【聖書の終末預言⑥】 世の終わりに私たちがすべき3つのこと(3)最後まで耐え忍ぶ「パンデミックに対する神の出口戦略」(マルコの福音書13章33-37節)

神の出口戦略
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はじめに

今日は、世の終わりに私たちがすべき3つのことの最後「最後まで耐え忍ぶ」についてお話しします。

春にコロナウイルスが蔓延し、緊急事態宣言が発動しました。
ただ、なかなか政府に出口戦略が見えてこなく、だんだん自粛疲れが溜まってイライラする自分がいました。

出口が見えてるからこそ、自粛であっても「あと少し」と頑張れるんだなと実感しました。

聖書は、終末(世の終わり)に起こる災害は必ず起こると言っています。

しかし、ちゃんと、その先に何が待っているか、目的も記しています。
このメッセージを読むと、終末を生きる私たちがどのように生きるべきか、具体的な行動がわかります。

 私たちが住んでいるこの世には必ず終わりが来ますが、しかし、その先に何が待っているかがわかり、希望を持って生きることができます。 

最近は、聖書の終末預言シリーズという世の終わりについて聖書が何を言っているかだけにフォーカスを当ててYouTubeもアップしています。「この世はこれからどうなるのか?」ということに対して興味のある方は、チャンネル登録をおすすめします。

世の終わりに私たちがすべき3つのこと 3つ目

今日の結論は一言でいうと、 世の終わりに私たちは「最後まで耐え忍ぶ」必要があるということです。 

アウトライン
①最後まで耐え忍ぶとはどう言う意味か?
②なぜ、最後まで耐え忍ばないといけないのか?
③どうやって、最後まで耐え忍ぶことができるのか?

①最後まで耐え忍ぶとはどう言う意味か?

 これは、「自分の命がなくなるまで希望を持ち続け忍耐する」と言う意味です。 

ここでの最後は、「世の終わり」の7年の大艱難時代の最後まで生き残れないと救われないという意味ではありません。ギリシャ語を見ると定冠詞(The)がない(⇄6節や14節)ので、自分の命がなくなるまで信仰を捨てないでいると言うです。

何に対して耐え忍ぶのでしょうか?災害?迫害?飢饉?もちろん、この世の苦難があっても、信仰を失わないようにと言うことは間違っていません。しかし、ここでの「耐え忍ぶ」と言う意味は先にある希望を持って「忍耐」することであって、ただ「我慢」することではありません。

ここで、忍耐と我慢の違いを区別させましょう。ある方が、辞書で調べこのように説明しておられました。
「忍耐」とは目標を達成する時に生まれる困難に耐えること。
「我慢」はただ嫌なことを耐えること。

つまり、「忍耐」と「我慢」は似て非なるものです。「最後まで耐え忍ぶ」と聞くと、ちょっときつくないですか?「えー苦難を通るのか」「嫌だなあ」「俺はちょっと無理かも」と、私たちが「苦難」や「災害」にだけ、フォーカスを当てるとそんな気分になります。

しかし、聖書で「忍耐」と出てくるときは、そのさきに希望が待っている時です。

ちなみに、聖書で「我慢」と言う言葉を調べてみてください。忍耐とちょっと違うニュアンス「嫌なことを我慢しているよくない状況」と言う意味で使われていることがわかります。つまり、この忍耐の理解は、次の質問の答えにつながります。

②なぜ、最後まで耐え忍ばないといけないのか?

 その先に素晴らしい希望が待っているからです。 

新約聖書のほとんどを書いたパウロは、このように言っています。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

聖書(ローマ人への手紙 8:18)

24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。
目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。

聖書(ローマ人への手紙 8:24-25)

目に見えない素晴らしいものが待っているから、パウロは忍耐することができました。私たちも、災害や苦難が襲ってきても、忍耐することができるのです。私たちはこの目で見える世界が最高だと思っています。確かに、素晴らしいですよね。神様が造られたのですから。でも、同時に災害や苦しみがあるのです。のちに来る世界は今の世よりももっと素晴らしいと聖書は言っています。完全にはわかりません。でも聖書はそのように約束しているのです。

新天新地と呼ばれる、新しい世界のことが聖書の最後の黙示録に書いています。私はキリストが再臨されて始まる千年王国のあとに、この新天新地が来ると信じていますが、学者によって意見は分かれています。

1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

聖書(ヨハネの黙示録21:1-2)

4 神は彼らの目から、涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

聖書(ヨハネの黙示録21:4-5)

死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない世界。これは、人類の誰もが満場一致で、「いいね」と言える世界です。しかし、一つ足りないことがあります。実は、わざと3節を飛ばしました。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とと
もにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、と
もにおられる。

聖書(ヨハネの黙示録21:3)

私たちの最高の希望は、新天新地で「神様が共に住んでくださる」と言うことです。どんなに素晴らしい世界でも、神がいないなら意味がありません。まあ、そんな世界は論理的に存在しないのですが。

今日のポイントは、この「イエスキリスト」と対面することにどれだけ期待感、ワクワク感があるかと言うことです。

私は、母がクリスチャンなので、生まれてからすぐに教会に通っていました。紆余曲折あって、本当にイエスキリストが自分の救い主で、本当に生きておられること、目には見えないけど、現実におられると言うことを大学生の時に体験しました。その時は言葉で言い表せない喜びが心にあふれました。

なぜ、今も聖書を読み、祈るのか?なぜ、こんなに熱く聖書を語っているのか?

それは、このイエスキリストとともに生きる人生を体験した、しているからです。

この世が終わった世界で、イエス様と顔と顔を合わせたら、どれほど嬉しいだろうか!魂が喜ぶだろうか!と本気で思うわけです。

私の4歳上の姉は、10年ほど前にこの世を去りました。今も、悲しくなります。生きていてくれたら、どれほど嬉しいかなあって思います。でも、姉はイエスキリストを信じていたので、天国で再会できるを期待しています。また、再開して今度は永遠に住めるんだから、いっぱい話したいこともあります。

「そんなこと本気で信じているのか?」そう思う人もいるかもしれません。でも、もし、天国がなかったら、この世で全てが完結するなら、あまりにも不条理が多すぎませんか?

この世が終わり、新天新地で、家族で暮らし、しかも、その中心にイエス・キリストがいる世界。体験していないのでどれだけすごいのか、一部しかわかりませんが、それでもワクワクします。

これが希望です。

もし、このメッセージを読んでいる方の中で、イエスキリストと対面することに、そこまで希望がないなら、信仰のどこかのピースがずれてしまっている可能性があります。信仰とは、あくまでも神様との関係で測られるものです。

聖書は、この希望までの忍耐を「産みの苦しみ」と表現しています。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるから
です。これらのことは産みの苦しみの始まりです。

聖書(マタイの福音書13:8)

産みの苦しみとは出産前の陣痛のことです。これも同じことですよね。なぜ、母親はあの陣痛に耐えれるのか?それは、やがて生まれる子供の誕生という希望のためです。

③どうやって、最後まで耐え忍ぶことができるのか?

簡単です。 キリストから目を離さないことです。 

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

聖書(ヘブル人への手紙12:1-2)

創始者であり完成者とは、信仰のスタートはイエスキリストを信じたことであるなら、そのゴールもイエスキリストを信じることであると言うことです。

目を離さないと言うのは、いつもイエス様のことを考えなさいと言う意味でもありますが、機械的に見るのではなく、イエスキリストとの人格的な関係を築いていくと言うことです。世の終わりには、惑わしの霊が働きます。しかし、イエスキリストのことばをしっかり心に刻み、そこから目を離さないなら、大丈夫です。

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らは
わたしについて来ます。

聖書(ヨハネの福音書10:27)

世の終わりには、苦難があります。これは患難時代に限ったことではなく、今もコロナをはじめ苦難があります。コロナが起きなかったとしても人生には苦しみがあります。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

聖書(ヨハネの福音書16:33)

このお方だけを信じれは大丈夫です。

まとめ

「世の終わりに私たちがすべき3つのこと」のうち、今日は最後の3つ目を取り上げました。

 世の終わりに私たちは「最後まで耐え忍ぶ」必要があるということです。 

①最後まで耐え忍ぶとはどう言う意味か?
  →「自分の命がなくなるまで希望を持ち続け忍耐する」と言う意味です。


②なぜ、忍耐しないといけないのか?
  →その先に素晴らしい希望が待っているから。


③どうやって、最後まで耐え忍ぶことができるのか?
  →キリストから目を離さないことです。

この世の終わりは、本当の終わりではありません。神様が治められる新しい世界の始まりです。その時、今は目に見えないキリストと面と向かって再会する時が来ます。

今日、一度、心に手を当てて、考えてみましょう。イエス様と会うことに期待感があるだろうか・喜びがあるだろうか?もし、あまりなければぜひ、祈りましょう。また、今日の話でイエスキリストを信じてみたい、そう思われた方もぜひ、祈ってみましょう。

神様は聞いておられます。

神様。今日、この世の中が全てでないことを知りました。
この世には終わりがあって、私たちは困難を通ることを聖書は明記していると知りました。
それを聞いたら怖くなりますけれども、その先に希望があるから、もっと素晴らしい世界があるから、
忍耐できることを学びました。
イエスキリストと対面することに対して自分が情熱がどれだけあるかというのが今日のポイントでした。
神様、私の心を燃やしてください。イエスキリストを人格的に知ることができるように
心を開いて、深い関係に入っていくことができますように。

神様。今日イエスキリストをはじめて知りました。
あなたのことを信じたいと思いました。
イエスキリストが私の罪のために十字架にかかり死なれ3日後に蘇られたということを、
頭では理解できなかったとしても私はそれを信じるということを決めました。
どうぞこの世の中にあって、理解できないこと、苦しみがあること
聖書を通してそれを理解することができるように。
また、神様との関係を通して、その一つ一つのことを
乗り越えていくことができますように。

イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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使用画像元: Pixabay, Unsplash

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この記事を書いた人

牧師。ライフコーチ。
1985年札幌で生まれる。小樽商科大学を卒業後、三菱UFJ信託銀行で3年間勤務。関西聖書学院(KBI)で1年間聖書を学ぶ。CCC(Campus Crusade for Christ)短期宣教を通じて出会った、当時CCC専任スタッフのク・ソンリムと2012年に結婚。2013年から3年間ソウル・オリュン教会日本語礼拝部伝道師として仕えつつ、トーチ・トリニティ神学大学院英語コース修士課程(Torch Trinity Graduate University/Master of Divinity)を修める。2016年から3年間、母教会札幌キリスト福音館で牧師として仕えた後、2019年より、札幌ガーデンチャーチを開拓。

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