教会やクリスチャンの間では「神を体験する」というフレーズが出てきます。
私もよく使います。
しかし、この「体験」を聖書が定義しているわけでもなく、ともするととても主観的で危ない言葉にもなりえます。
その人が本当に神を体験しているかは、その人にしかわからないからです。
旧約聖書にヨブという人物が出ています。
彼は、人生の苦難をとことん味わった人物として登場します。
このヨブ記の最後の最後に、ヨブは神を体験します。
私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。
聖書(ヨブ42:5)
「私はあなたのことを耳で聞いていました」とは、自分の体験から来る知識ではなく、他人から聞いた知識のことです。
ヨブは、これまでの神に対する自分の知識が、伝統的な知恵にとらわれたうわさに過ぎなかったことを認めます。
彼は、「しかし今、私の目があなたを見ました」と告白します。
それは、神について体験を通して新しく得た知識です。
聖書には、二つの知識が出てきます。
①体験的な知識
②情報としての知識
です。
①体験的な知識とは、私の妻が「ゆうき牧師を知っている」と言うように、実際に会って、生活して得た体験的な知識です。
全人格的な、包括的な知識です。
一方、
②情報としての知識とは、「ゆうき牧師を知っている」といっても、あったこともないし、YouTubeで見ただけの知識です。
僕の出身地や、好きな食べ物などの情報を知っていても、会ってしゃべったり、人格的な関係を通してのやりとりがなければ、それは情報としての知識です。
ヨブは、ずっと②情報としての知識しかありませんでした。
彼は、神を見たいと願っていました。
この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。
聖書(ヨブ19:27)
彼の三人の友人が彼を責め立てるのですが、この三人も②情報としての知識しかありませんでした。
なので、ヨブは、彼の三人の友達の言っていることも、ピンと来なかったのです。
「じゃあ、あなたたちは、神を見たのか?体験したのか?」
結局、ヨブ記の最後で、神はヨブの前に現れ、彼は、「私の目があなたを見ました」と体験を通して神を知ることになったのです。
ここでの、見たと言うのは、肉眼で見たわけではありません。
聖書には、
いまだかつて神を見た者はいません。
聖書(1ヨハネ4:12)
とあるからです。
ヨブは、神の語りかけを聞く中で、自分を愛し、しっかりと握っておられる神の存在を感じたのです。
ヨブの体験は、全ての人が必ず同じような体験ができるとか、するべきと言っているわけではありません。
しかし、聖書は、ヨブのように個人的に神を体験することがあると言うことを記しています。
神を体験した人の特徴が、ヨブの反応からわかります。
それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。
聖書(ヨブ42:6)
神を体験した人は、悔い改めます。
自分の知識や義を主張していたヨブは、自分がいかに何も知らなく、高ぶっていたかを悟ったのです。
また、神を体験した人の心は満たされます、
彼は、それまでは、激しい苦難を味わい、死を望んでいました。
しかし、神を体験し、彼はもう「死にたい」という感情がなくなったようです。
それは神を見るという素晴らしい経験によって満たされたからです。
悔い改めと満たし。これは、イエス・キリストの十字架の福音を信じ、受け入れた人に起こることでもあります。
もし、ヨブのように神を体験したいと思われた方、あなたがキリストを信じるならば、悔い改めと満たしを通し、神を体験することができると信じます。
信じるものの内側に聖霊が与えられているからです。