ある神学校の教授が生徒たちに父なる神の絵を描くように言いました。
- ある人は、厳格でこちらを睨みつける裁判官
- ある人は、こん棒を持って家臣に怒りをぶつける暴君
- ある人は、混乱し当惑した顔で優柔不断な弱々しい姿
- ある人は、誰もいない王座
わずかな者だけが、憐み深く慈悲深い目をした父なる神が、子どもたちを祝福しようと両手を広げ、王座に座っておられる姿を描きました。
聖書は、父なる神は、あわれみ深い優しい方だと言っています。
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。
聖書(出エジプト 34:6-7前半)
もちろん、その優しさは、優柔不断で弱々しいものではなく、畏れを生み出す強さと気品に満ちてもいます。
実際、今の聖書箇所の続きは、「罰すべき者を必ず罰する」という厳格な正しさも書いています。
問題は、私たちのイメージが、厳格さや、怒りやすさ、無関心、冷淡なものに偏っていることです。
あるいは、全然尊敬できない、無責任で弱っちい父親像。
先ほどの教授は、生徒たちが間違った神のイメージを持っていたので、神学校で何を教えようと、聖書の話が入って行かなかったと言います。
教授は、彼らの育った家庭環境、特に、地上の父親のイメージが、神の理解を曲げ、偏見を与えていましたことに気づきました。
どうやったら、この間違ったイメージを払拭し、父なる神の愛と祝福を十分に受け取ることができるのでしょうか?
イエスさまを通して、父なる神を見ることです。
ほとんどの人は、イエスさまは、心温かく、友好的で、哀れみ深く、出会うすべての人を愛し、笑顔で両手を広げておられる方としてイメージすることができます。
しかし、父なる神は、罰を与える厳格な裁判官だと思っているのです。
これは間違っています。
なぜなら、イエスさまはこう言っているからです。
わたしと父とは一つです。
聖書(ヨハネ10:30)
イエスさまがそうならば、父なる神もそうなのです。
私たちの認知と聖書の真理が異なっていることがわかったなら、すぐに祈りましょう。