日本の元プロレスラー・アントニオ猪木さんの名言といえば「元気があれば何でもできる!」です。
しかし、聖書には元気があってもできなさそうな奇跡が出てきます。
例えば、今日の箇所では、キリストが水の上を歩いています。
まあ、キリストは神なんだから、わかるとしても、なんと、その弟子のペテロも水の上を歩くのです。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
聖書(マタイ14:28~29)
イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
聖書に書いているのは、本当にペテロは水の上を歩いてイエスの方に行ったということです。
「元気があれば何でもできる!」を聖書的に言い換えるならば、「信仰があればなんでもできる」でしょうか。
神を信じれば、奇跡を行うことができる。
神を信じれば、どんな苦難も乗り越えることができる。
一見、とても信仰深く聞こえます。
しかし、これらの宣言には落とし穴があります。
これらの発言は、私たち、人間の視点で物事を考えているものだからです。
なぜ、ペテロが水の上を歩くことができたのか?
それは、本質的には「信仰」を含め、彼のうちにあるのではありません。
信仰が強かったからではありません。
彼が大胆に求めたからでもありません。
彼の功績、能力、性格、立場も関係ありません。
もちろん、求める行為は大切です。
しかし、それらが土台ではないのです。
なぜ、ペテロが水の上を歩くことができたのか?
それは、イエス様が「来なさい」と言われたからです。
イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
聖書(マタイ14:29)
私たちが聖書を読むと、「ペテロが水の上を歩いた」という奇跡に目を奪われがちです。
はたまた、ペテロの行動に原因を探しがちです。
しかし、事実は、イエス様が「来なさい」と言われたから、彼は水の上であっても、イエス様の元へ行くことができたのです。
なぜでしょうか?
神のことばは真実だからです。
今日、これを覚えましょう。
神のことばには力があり、神のことばはその通り成就します。
聖書の一番最初の創世記を見ると、神はことばひとつで世界を創ったとあります。
私たちは、物事を自分視点で捉えてはいないでしょうか?
「できないのは自分のせいだ」「もう少しお金があれば、能力があれば、時間があれば物事がうまくいく」」
神様の視点で物事を捉えることが、信仰の土台です。
「自分に対する神様の約束はなんだろうか」「神様の御心なのだろうか」「神様はなんと言われているだろうか」
大事なのは、「何を信じるか」という信仰の対象、神のことばと神様自身です。
なぜ、イエス様はペテロの願いを受け入れ、水の上を歩かせたのか?
それは、彼を含めた弟子たち、また現代であっても聖書を読んでこのストーリーを読んだ私たちが、「神のことばは真実だ!」「神のことばには力がある!」
と神を崇め、神を恐れ、礼拝するためです。
自分視点から、神の視点で物事を捉えましょう。
神が語ればその通りになる。語らなければならない。
どっちにしても、それが私たちにとって最善です。