ある牧師が、「許し」と「赦(ゆる)し」の違いを説明されていて、とてもわかりやすかったです。
「許し」は、「許可する」というような意味合いがあり、行為や行動の前段階でのことです。
「赦し」は、すでに起こってしまった出来事や過ちに対して、「恩赦」をしたり、裁かずに受け入れることを指します。
普段、使い分けない許しと赦しですが、聖書は明確に使い分けています。
聖書を通して、神様の許しと赦しを見ていきましょう。
①神様は、私たちの行動を許されています。
「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。
聖書(1コリント6:12)
使われている漢字を見てください。「許し」です。
それが良いか悪いか別として、私たち人間には基本的に全てのことをする自由が許されています。
私は牧師ですが、今からコンビニに行って、万引きをすることもできます。
もし、許可されていないなら、神様は、私の手足を縛るか、万引きした瞬間死ぬ身体にするでしょう。
「悪いこともやろうと思ったらできる」これを自由意志と言います。
もちろん私は万引きはしません。
許された行動の中には、益にならず、他人を傷つけたり、不幸になることもあるからです。
聖書を読めば、神様ははっきり盗んではならないと言っています。
パウロが語ったコリントの教会では、キリスト者に与えられた律法からの自由を誤用して、「すべてのことが許されているんだ」「俺らには自由意志があるんだ」と言って、風俗にいく人がいたのです。
つまり、神様は私たちに自由な行動を許しておられるほど、心が広く、公平な方であることがわかります。
しかし、許されているからと言って、しても良い訳ではないということです。
この自由を神様が喜ばれることに使う人が、成熟した人です。
②神様は、私たちの行動を赦されています。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
聖書(ルカ23:34)
使われている漢字を見てください。「赦し」です。
これは、自由意志を誤用し、罪を犯す私たちがしたことを神様が赦して下さるということを表しています。
つまり、神様は私たちに自由な行動を許し、やってしまった失敗をも赦すという、ちょっと理解できないほど心が広く優しい方であることがわかります。
どんな罪でも、赦されるのか?自分の罪を悔いて、神様に謙遜に赦しを求めるなら、どんな罪でも赦されます。
じゃあ、やりたい放題じゃないか?と思います。
なんか論理が崩壊しているようです。
しかし、実際はもちろん、なんでもありではありません。
まず、キリストは私たちの罪を赦すために、代わりに処刑されました。
代わりに刑罰を受けたのです。
自由を履き違えて、好き勝手やった私たちの代わりにです。
その事実を知っても、神に感謝せず、もっと自由を神を悲しませる罪のために使うならば、その人は本当にひどい人です。
神様はそういう人に対しては、きっちり裁かれると聖書に書いています。
そりゃそうですよね。十字架で赦したよって言ってるので、それを拒んだら、神様は「その人が刑罰を受けること」を許すしかないんです。
私たちは、神の「許し」と「赦し」にどう答えるでしょう?