はじめに
今日は、「罪って何?」について解説します!
罪とは何なのでしょうか?
悪?犯罪?いけないこと?罪悪感?
キリスト教では「人はみな罪人」と言うけれど、何だか抵抗感がある。
自分には前科はない。
でも大丈夫!
この記事を読めば、「罪って何?」という質問に一言で答えることができるようになります。
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「罪って何?」一言で言うならば、神が人に定めた道を踏み外すことです。
1.罪の語源は「的外れ」
聖書が語る罪のギリシャ語の語源は「的外れ」です。
旧約聖書のヘブル語の「ハーター」、新約聖書のギリシア語の「ハマルティア」が日本語では「罪」と訳されていますが、これはアーチェリーの矢を的から外してしまうイメージです。転じて、すべての人間は生きる道を踏み外し、結果争いや虚しさ、怒りや苦しみが私たちの幸せを奪っているのです。
パウロはローマ人への手紙7章15節で、何が人の道であるのか分かっているはずなのにそれができない自分がいる葛藤を正直に告白しています。
私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
聖書(ローマ7:15)
2.罪は、神との関係の中で
罪とは「的外れ」と言いましたが、それには元の道があることを意味します。それは、神が望むとおりに生きることです。神は世界を創造し、人間を創造しました。設計者は物を作る時には当然、目的を持って制作します。椅子を作るなら、誰かがそれに座ることを想定して設計し、組み立てます。設計者の意図通りに活用されることがベストです。人も同じように、創造者である神の望まれる生き方があり、その通りに生きることがベストであり幸せであるはずなのです。しかし、人は自分の設計者である神の意志に反逆しました。
罪の結果、人は悪に傾く傾向を持ち、他者や自分を破滅へと追い込むようになっていきました。罪の具体的な例はガラテヤ人への手紙5章19〜21節などを参照してください。
19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
聖書(ガラテヤ5:19-21)
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
「氷点」の作者である三浦綾子さんは、人はみな「原罪」を持っていると言いました。愛や喜び、平和の素晴らしさを知っているはずの人間が、道を踏み外してしまう傾向・性質を持っているのです。
3.罪の起源
罪の始まりは、最初の人アダムとエバから始まりました。二人は神と良い信頼関係を持っていました。神も二人を愛し、必要なものをすべて与えていました。しかし、二人は神の意志に反し、自分が神のようになりたいと思い(=自分が基準となる)、神との信頼を裏切ってしまいました(創世記3章)。こうして人間は、神に逆らうものとなっていってしまったのです。
4.罪の悲惨な影響と救いの必要性
罪の本質は、神を神として認めないこと、自己中心です。自分の意志で決めて生きることが本当の自由のように、現代の価値観では思われていますが、本当にそうでしょうか?人は弱い生き物です。失敗や過ちを避けては通れないし、願っていないのに人に傷つけ傷つけられ、幸せを見失っているのです。結局、自分の思うままに生きることが自由だと思っていながらも、実は知らない間に自分の心が罪に支配されているのです。
罪の影響下にある人間は結果、死を迎えるようになりました。
罪から来る報酬は死です。
聖書(ローマ6:23前半)
いのちを創造された神から離れた人間は、コンセントが壊れた電化製品のようなものです。電力の供給が無くなった電化製品はやがて止まってしまいます。人は、もう一度いのちの源である神につながらなければならないのです。
まとめ
「罪って何?」一言で言うならば、神が人に定めた道を踏み外すことです。
- 罪とは「的外れ」、生きる道を踏み外すことである。
- 罪は、神の意志に反すること。
- アダムとエバの出来事から、人は神に逆らうようになっていった。
- 罪の本質は自己中心。本当の自由・幸せは、神との関係を回復すること。